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【展示】ことばの音

名古屋の現代写真アートギャラリーFLOW、そして都内の現代アートギャラリーasploitへと巡回している石本陽の展示『ことばの音』を見に行ってきた。

3色のペンを利用し、正常な(意味のある)文章と各単語の発音に類似する単語、修正した箇所の単語、が重なって一枚の画面構成をなしている。

ただし、色の意味や擬音単語の選択などは本作において本質的な問いではないと思われる。言ってしまえば「なんだっていい」のである。

重要なのは、1音の文字の持つ「音」と、文字が連続することで表象する「ことば」の意味であるように感じられた。

いうなれば、本作はシニファインとシニフィエ、そしてシーニュの関係性を取り扱っているのである。

文字の音と文字の意味(記号)の体験。元ネタのある「文章」をもとに書かれた作品ではあるが、擬音が混ざることによって本来の言葉の意味から解脱されていく。

われわれは無意識のうちに文字を言葉に、さらには文字を音にへと変換することに慣れてしまっている。

とりわけ、1語1音からなる日本語(ひらがな、カタカナ)は音がつながることによって意味のあるワードへと変化していく。

しかし、その音はイントネーションによって別の意味を持ち得たりもする。

「あめ」は「雨」と「飴」であったり、
「はし」は「橋」と「箸」であったりする。

さらに、ひらがなの音から特定の意味を理解するためには、その前後関係から意味を読み解く必要がある。


こうした日常的かつ感覚的に行っていることばと音との関係性を視覚化することで鑑賞者に問いかけているのが本作ではなかろうか。

そのため、表層的な色(ペン)などには、おそらく特定の意味はないように思われる。選んだ色がその色だったから、といった理由かもしれない。

しかし、鑑賞者、とりわけ写真に精通する人物からすれば、そこになにが表層しているかどうかに意識が働いてしまう。

色がどうだの、形がどうだの、といった表層的にみえるものだけに注意を取られていては、本質的な問いにはたどりつけない。

本作はシンプルでありながらも、現代アートへの入り口へと誘ってくれる、ある種の踏み絵のような作品であるのかもしれない。

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