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【考察】考える力

かつて、大学院ゼミのスピンオフで、アーティスト役としてインタビューを受ける機会があった。

その中で、未来を考えるにおいて、現在は意識的に考える機会が極めて希薄になっているのではないか、という問題提起をした。

学生時代。平等、多数決、協調性といった、「みんなおなじ」という意識の擦り合わせが幼少期の頃から無意識のうちに行われている。

一般的にパーソナリティを全面に押し出す機会は、就活のときにやってくる。それまでとは真逆の、個性や自己主張といった、他者との優位性が求められることとなる。

そして晴れて社会人の一員となった瞬間から、再び個性よりも協調性などが求められるようになっていく。


テクノロジーに目を向けるとどうだろう。私が幼少の頃にはゲーム機はおろか、携帯電話すら一般的ではない時代であったが、特段それが不自由であると感じたことはなかった。それが「あたりまえ」な時代であったのだ。

小学校の高学年頃にはファミコンがある家庭が増え、ゲームをする機会が増えてきた。遊びにおいて、創意工夫よりもゲームという絶対的なツールが侵食してきた。

中学ではポケベル、高校では携帯電話が主流となり、人との関係性がこうしたデバイスを通じて行えるようになった。

高校〜大学では、インターネットやスマートフォンが普及し、ネットに常時接続できる環境が整備されていった。

デジタルネイティブ世代には該当するものの、アナログ時代も体験し、デジタルの黎明期から現在の成熟期まで、その変遷を目の当たりにしてきた。


むしろ、こうした時代の変化の当事者として生きて来れたことに対して、非常にありがたさを感じている。こんな劇的な変化を体験しようと思っても、できるものではない。時代の流れに乗れたことが、ある意味奇跡的であるかもしれない。

個性と協調性。決して明確な答えが出る訳ではないが、自らの立ち位置を明確に言語化できるようにはしていたい。


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