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【書籍】Wolfgang Tillmans

2014年に美術出版社より刊行された本書は、写真集という位置付けながらも、テキストが多くを占める。インタビュー記事が掲載されている本書で、ティルマンスの世界観を垣間見れる。

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ティルマンスは展示に際して、複数の見え方を展開している。

ひとつは「私がどのように世界を見ているのかが反映されている」ことである。それは日常生活における経験、たとえば近づいてみたり、視線を落としたりなど、普段の生活のなかで無意識に行っている行動を、さまざまなサイズや方法によって意識的に提示している。

さらには、「その瞬間の生」を変化させ、多様な意味へと転化することによって、「理想的には、他者と分かち合えるような、より普遍的な人としての経験となる」と指摘する。

もうひとつは、空間演出の点であり、「空間のエコノミー」であるという。

3点目は写真そのものに関するもので、ティルマンスは以下のように述べている。

イメージとは何か?そしてギャラリーという空間の中でのイメージとは何か?また、写真とは何か?写真には何ができるのか?という可能性を問うための概念的アプローチです。

一般的に写真は単なるイメージ情報であると捉えられる傾向があるが、ティルマンスは「写真そのものであるように見える」ように空間を演出していく。すなわち、これはティルマンスが写真を「オブジェ」とみなしていることに他ならず、初期の頃から一貫して取り組んでいることである。

こうした思考のもとで作られるインスタレーションは展示の数週間前から入念に準備を行い、チームのメンバーとともに展示空間を創造していく。その行為を明確に説明すると「展覧会をパフォーマンスし、本を書く」ことである。

私はそれらを写真とコンピュータを使って「書いて」いる。いわば、本は実は書かれているのです。『Neue Welt(新しい世界)』は、文字通り6ヶ月以上にわたって私が書いたものです。ただ、言葉を使わずに。

「パフォーマンス」という言葉はインタビュアーが指摘するように、「パフォーマンス」するように展示準備を行うこと、および「観客はその痕跡としてのパフォーマンスである展示を見る」ことを指す。

制作活動についてはティルマンス自身が多く登場するが、それは「私の人生の物語ではない」という。それが繰り返し使用されることによって、鑑賞者は過去と現代とをつなぐ私的な物語を共有する、とみられてはいるが、「プライベートな生活は、それよりも何か大きなものについて写真が話せるようにするための、主題を得るためだけの方法でしかない」と一刀両断する。

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作品には私的なものと政治的なものとが混在しているが、「美学は政治的であり、プライベートな生活も政治的である」というスタンスにある。

私たちは何を受け入れ、何に美を見るかという、政治を明確にする問いなのです。

作品の中にはより「政治的」にみえるようなものも存在するが、ティルマンスの行為は「文化的な分脈の中で起こることであり、それが政治的である」という、あくまで結果として政治的なコンテクストを持ち合わせていることを指摘する。

そのうち、問題だと思う政治的な事柄について話す方法について、展示会のなかにもうひとつの異なる展示会のような「truth study center(真理研究所)」のプロジェクトを立ち上げた。

ティルマンスにとって「リアル」や「抽象的」といった明確な区別はなく、『新しいイメージを作り出すためには、どのようにメディアを使えばいいか?』という問いを、常に自身に問いかけている。そのため、たとえ抽象的な作品であったとしても、「抽象」という名の「具象」によるものとして捉えている。

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2012年に出版された『Neue Welt』は、新たな写真表現を念頭に置き、「今、世界はどうなっているのか、私が世界をどう見るのか、そして、その世界をどのように写真にできるのか?」という思いで制作された。

これは、「私に対する世界の見解を示すこと」が念頭にあり、作品のモチーフや断片は『Life is astronomical(生とは天文学的なものだ)』という考えのもとで構成されている。

ティルマンスはディスプレイ上にいくつものウインドウを開いたようなレイアウト(本書では「ディスクトップ・タイプのレイアウトと呼称)を行なっている。

ただし、基本的にティルマンスの写真は非加工のストレートフォトで構成されていることから、ティルマンス作品のレイヤーを清水稔氏は以下のように分類している。

1. 現実のレイヤー構造(たとえばカーテンウォールなど)を被写体として撮影
2. 1枚の写真のなかで複数のレイヤーを見い出すものとして
2-1. フレーム内に複数の四角いレイヤーを発見するもの
2-2. 焦点距離によって表出される、ピント面によるレイヤーで前後を分割したもの
3. 実際に複数の写真を重ねたレイアウトによるもの

これは、清水氏がティルマンスの作品を「レイヤー」というワードに着目して、作家論を展開したものである。

『Neue Welt』のなかの特定のページに触れ、レイアウトの主題は「ユーラシアからアフリカにかけて、「人々が同時にそれぞれの生を営んでいる、シンプルな同時性に対する驚嘆である」と清水氏は展開している。

また、『「アストロノミカル」な同時性は、ここではサウジアラビアの古都を中心線として俯瞰されている』と述べている。

天文学的なことは「生」なのであって、サウジアラビアが中心かどうかは重要ではないと思われる。それは、路地といった「生」に関するもの、すなわち生活と密接に関係する場所や、写された人々の「生」、命や生きること、予想だにしない動きやその眼差しといったものは、宇宙の構成や、未知の発見、探査や衝突といったように、世界中の「生」は天文学的な事象によって構成されているのであって、決して「シンプルな同時性による驚嘆」によってレイアウトされているのではない。

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ティルマンスの撮影行為は、デジタルに移行してからもフィルムの場合と大きな差はみられない。「私にとって写真とは、撮られるものと撮る者との対話」であると述べているように、写真には投影、希望、推測が込められている。

これは、フィルムカメラがそうであったように、撮影した写真はすぐにみることが出来ず、現像プロセスによって写真へと変換されることと同じである。

私が原則、撮影後にどんなリタッチや加工も行わない理由の一つです。私は、撮影の瞬間にイメージが生まれてくる魔法を信じています。見る人に、私の写真を信じてほしいのです。(中略)イメージは熟成しなければならないと感じるのです。(中略)そのイメージを撮影した瞬間から遠ざかれば遠ざかるほど、自分の願望や希望から自分を切り離せるのです。

その場ですぐに確認ができ、失敗したとあらば消去できる。商業的(職業的)な撮影にとっては、デジタル技術の恩恵は図り知れない。しかし、写真の魔術的な要素を活かすためには、デジタルのメリットがデメリットへと成り下がる。

旅によって各地を巡り撮影を行った際、短期滞在で有名・無名問わずに足を運んだという。短期滞在によってみえてくるものは「その土地の表面」であり、「我々は基本的に世界の表面から物事の真実を読み取らなければならない」という考えに則っての行動である。

「Life is astronomical」という考えは『人はいったい何を知りえるのか、何が変えられ、何が変えられないのか、どのような観点に人は立っているのか、という問い』によって行き当たった言葉である。

これは、人間は地球上で特権階級的な存在なのではなく、地球をひとつの生命体とみなす「ガイア論」的な見解に非常に近いものを感じる。

また、ティルマンスが作品を制作することについて、「突き詰めていえば、独りぼっちになりたくない、孤独になりたくない」というのが出発点としてあるという。

ティルマンスが行なっている全ての根底に存在するものは「遊び心」「楽しみたい」という思いがそこにはある。ただし、「最終的にはきちんと向き合って分析をすることが必要である」と付け加えて。


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