見出し画像

POST/PHOTOGRAPHY3

昨年に引き続き、第3回目となる「POST/PHOTOGRAPHY」展が京都芸術大学で催されます。

https://www.instagram.com/postphotography3/

今年の副題は「INTERPLAY」=相互作用。東京工芸大学との共同展示とのこと。

本展は第1回目より、これからの写真を提唱するひとつの呼称として「POST/PHOTOGRAPHY」を掲げている。しかし、提示する当の本人たちはあくまで「写真」を提示しているだけにすぎない。

この「写真」の定義が、かつてのアナログ的なものから現代的な広義な意味へと捉えているのが、今を生きる若者の自然な態度によって大きく変成されていることに端を発している。


たとえば、アンドレ・ブルトンは「シュルレアリスム宣言」によって、自ら「シュルレアリスム」という運動を牽引した。

一方でクレメント・グリーンバーグはジャクソン・ポロックなどを代表とする「抽象表現主義」を唱えた。

これらは、アーティストが先頭に立ってみずからの表現を提唱する方法と、美術評論家などの第3者によって提唱される方法がみてとれる。

アート=オリジナル=先駆者であった時代であれば、最初にその表現を行った人が優位に立つ。会社でいうところの創始者にあたるであろうか。

しかし、現代アートにおいて「ありとあらゆる表現はされつくされている」という前提条件がある。そのため、現代で先駆者になるには非常に厳しいといわざるを得ない。

となると、重視されてくるのが第3者による見立てや再評価といった、解釈のアップデートが優位となる。


「POST/PHOTOGRAPHY」展もまた、展示しているのは現役の大学生・院生ではあるが、このように呼称を与え、現代における写真のあり方をあーだこーだ言っているのは、ほかでもない周囲の大人たちである。当の本人たちには当たり前の振る舞いであるため明確な差異は理解し難いのだ。

一方で、かつての「写真家」と呼ばれる撮影やプリントをメインに行ってきた人物からすると、現代の表現が「写真」にカテゴライズされるとは微塵も思ってはいないだろうし、理解すらできない。おそらく時代によって変化し続ける「写真」に気付いてはいないであろう。

現代の若者と大御所の写真家たちとの狭間、両方の時代を生きてきた世代の大人たちだからこそ、「これからの写真」について雄弁に語ることができるのかもしれない。


「POST/PHOTOGRAPHY」展で展示される「写真」には、ステレオタイプな写真、いわゆる撮影→プリント(額装)といった作品は提示されないであろう。

ただし、見た目(作品の表層)はもちろん重要であるが、単に機を狙った形状にしただけでは、それが「写真」であるとはいえない。制作にいたるまでのプロセスや提示方法などに「写真性」(写真的特性)がみられ、今という時代性があらわれている(ようにみえた)とき、その作品がこれからの写真=「POST/PHOTOGRAPHY」に該当するのかもしれない。

つまり、試されているのは制作者側ではなく鑑賞者側。ほんとうにこれが写真なのか?なぜこれが写真とカテゴライズされているのか?現代における写真とは何なのか?

ぜひ、その目で展示されている作品が「写真」であるのか見極めてもらいたい。


よろしければサポートお願いします!今後の制作活動費として利用させていただきます。