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【絶対写真論】Chapter11 エピローグ

本章は本書のまとめであるとともに、今後の展望を示している。まずはこれまで提示してきた「絶対」とは何をもってして「絶対」と述べたのかを明言している。

参照としたのはカジミール・マレーヴィチが提唱した『シュプレマティズム(絶対主義)』である。

マレーヴッチの作品は抽象表現主義の先駆けとして世間一般的には位置付けられてはいるが、実際のところマレーヴィチが目指していたのは抽象表現なのではない。

彼が目指していたのは絵画における絶対性、すなわちキャンバスでなにを表現することによってそれが絵画となるのか、ということであって、決して抽象表現の極地を目指していた訳ではない。その結果、マレーヴィチが最終的に行き着いた表現が《白の上の白》(1918年)である。


マレーヴィチが追求していたのは絵画の本質を明らかにすることであった。そのため、《白の上の白》によってシュプレマティズムが極限へと達してしまった結果、自らの手でその芸術運動の終焉を招いてしまったのである。

さらにマレーヴィチは晩年、それまで自身が否定してきた風景画や肖像画を描くようになっていった。シュプレマティズムが限界に達してしまったことで、否定してきたステレオタイプな絵画へと回帰せざるを得なかったのである。


私もまた、マレーヴィチと同様に写真の根源とは何かを明らかにしたいという思いはあった。そして本書によって写真の根源が「アルゴリズム」によって生成されていることを明らかとしたのである。

ここで、私とマレーヴィチが根本的に異なるのは、マレーヴィチは絵画の本質を明らかにすることが目的であったのに対して、私は写真の本質を明らかにしてもなお、提示したいテーマがある点である。

写真における根源的な絶対性はアルゴリズムがその役割を担っていたとしても、私が作品を制作するうえにおいてはアルゴリズムでなければならない理由はどこにもない。ただし、これまで多くの作品がアルゴリズムによって生成していることから、私にとってアルゴリズムはある種制作を共にするパートナー的な存在であるといえよう。


さらに本章では本書の締めと今後の展開について綴っている。本書では写真の絶対性を述べてきたが、これで制作が終わる訳ではない。むしろ、修士論文という形で本書を書き上げたのはひとつの区切りであって、ここから先が本当の意味でアーティストとしてのスタートなのである。

次はどのような作品を制作するのか、シリーズのひとつとして本章で提示してはいるが、実のところ並行して複数作品を制作している。なお、ここで示した参照元は、フランスの小説家アルベール・カミュの「シーシュポスの神話」である。


日常生活において気にも留めないこと、意識しなければ見えてこないことは無数に存在する。それに気付くか気になるかは私のそのときの感覚に依存する。そのため、制作のテーマは外発的なものではなく、身の回りのいたるところに転がっている。

そしてそうした「ズレ」に気付くためのアンテナを広範囲かつ高感度でいついかなるときも受信できるために、今を生きているのかもしれない。



現在aaploitで開催中の個展『Absolute Pohotographs』は多くの方に足を運んでいただいており、ギャラリーのご厚意によって会期が2022/10/23(日)まで延長となりました。詳細は以下にてご覧ください。

あらたにアートワークページも更新されました。



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