見出し画像

【書籍】サブジェクトからプロジェクトへ

ヴィレム・フルッサーによる本書。別書『写真の哲学のために』はかつて読んだ。

取り急ぎ、序~第1章&第2章を拝読。

**********************************

神の法が言葉によってコード化されているのに対して自然法則が算法(アルゴリズム)によってコード化されている

神の法、すなわち聖書などの神の教えは、言葉によって伝承されるのに対して、自然法則、たとえば気象学や物理学など、その法則は数式によって表記され、気象予報や飛行機の到着時刻など、アルゴリズム的な処理が施されている。そして我々は演算結果をさも自動的に表示される結果であるかのように取り扱っているため、その演算方法を知ろうともしない。自然の摂理もまたブラックボックスと化したアルゴリズムによって制御されているのだ。

我々は法則の従事者(サブジェクト)ではなく、法則の投企者ではないのか

投企(とうき:ハイデッガー提唱)は以下を参照。

人間というもののあり方というのは、自分の存在を発見、創造するということである。そのために、我々は現在から未来に向かって進むということであり、そのために自分自身を未来に投げかけていくということが投企というわけである。

法則は誰か(人間)かが提唱したもので、我々は法則に準じて行動しているわけではない。むしろ法則は誰しもが見い出すことができる。ただし、民法や刑法といった言葉による法則(法)は破ることで罰せられる。これは、人間の尊厳や身の安全を担保するためであるとみてとれよう。

知覚された世界とは、データ処理の投企にほかならない

世界の全てはデータである。新記号論でも出てきた。

「自我」とは、情報が流れ込み、処理され、一時的に蓄えられ、さらにほかに伝達されるための貯水池にすぎない。つまり「自我」とは、「無意識の」集合的心理のネットワークの上にある間主体的なネットワークの、絶えず移動する結び目でしかない。

フロイト的な見方である。こちらも新記号論で触れられていた。

そもそも1900年頃の哲学では文系的(言語的)な分野と理系的(数学的)な分野が共存していた。それが、ソシュールなどが提唱した哲学が言語的な結びつきと非常によくマッチしたため、いつしか哲学=文系的なものと捉えられるようになり、数学的な展開は蔑ろにされてきた。

人間のパラメーターはどれも解析可能であり、無数の点に分解できる

DNAが最たる例ではあるが、たとえば血液検査によって血中の数値を測定することによって、健康状態すらも数値的に判断することが可能である。そのほか、身長や体重、持久力や肺活量など、人間は数値によって解析、分類される。

写真家ではなく、カメラのプログラムを創った者(投企者)が、本当の「写真作家」だということになる

コード化された現代において、そのプログラムを創ったものが創始、その通りだと思う。写真家はプログラム化された機械を操作するオペレーターにしかすぎない。

いまや、知覚そのものではなく知覚を投企することが、創造的だとされる
「知覚された世界」の意味でのいわゆる「実在(リアリティー)」が、実は計算的構成(コンピューテーション)だという正体を顕しているのだから。

この世は仮想現実である。

生活世界からの脱却=物の文脈からの脱却
 ↓
物の三次元性からの脱却=画像を描く
 ↓
画像の模写力の二次元性からの脱却=テクスト
 ↓
アルファベットの一次元性からの脱却=計算する者となった
 ↓
ゼロ次元へ=抽象性へ

ゼロから低次へは移行できないため、緩やかに高次の方向へ向かっている。

文化的ペシミズムは、完全な抽象化(客体と主体の解消)が達成された時点で登場する

ペシミズム=悲観主義。

古い画像は物の世界および(または)ものの世界の従属者(サブジェクト)を見せるものだったが、新しい画像は方程式と計算を見せてくれる。

写真は「データ」であり、データは「0」と「1」によるデジタル情報の集合体でしかない。アナログ時代の写真画像は、撮影という行為を通して世界を切り取っていた。一方でデジタル時代の写真画像であるデジタルデータは、演算処理によってコード化され、コード化された情報の集合体を、液晶画面やディスプレイなどの表示媒体を通して表示される。

科学の知は、その方法によって、他のすべての知から区別される

科学は現象の観察→仮説→実験・検証によって「理論化」され、その理論が現象を充足することによって立証される。もし、仮説が現象に即さない場合は、新たな理論をもって、その現象を説明しようと試みるのだ。

知覚とは、刺激をモデルに従って計算的に構成(コンピュート)することであり、モデルのないところではコンピュートできないのだ

いかなる現象もあらかじめ与えられた「モデル」が存在する。ここでの「モデル」とはアルゴリズム的なモデルであると解釈する。

私の平素の実務では解析モデル、すなわち地盤の形状を2次元もしくは3次元的なメッシュ状にモデル化し、計算ツール(演算処理)を用いることによってその解を得る。モデルが存在しなければ、もしくはモデルが間違っていれば計算はできないし、パラメータが間違っていれば正しい解は得られない。

主体は、みずからの知を前提とする。(中略)人は知を「もつ」のではない。人は知「である」。

あらかじめ「知っている」ことが前提としてあり、人間そのものが知として存在している。

科学と芸術を合致させ、「知」を技巧としてとらえる手がある。だが、知はわれわれが持てるようなもの、われわれの信頼を置けるようなものではない、ということを素直に認めるなら、われわれは、どんな技巧を用いようとも、一切の善霊・悪霊から見捨てられているというしかない。

人間が知「である」以上、「知」を技巧として用いることはできない。でき得るとするのであれば、「新たな見方」を提示することではなかろうか。

主体(サブジェクト)から投企(プロジェクト)への変換を避けようと思っても、無駄なのである。科学から疑いへ、疑いから信仰へと逆行することはできない。科学はわれわれの疑いを先取りして自分自身を疑うものだから、科学を疑うことは全く不可能になっている。

科学とはそもそもが疑いの学問である。これは正しいのか、実現象に即しているのか、よりよく現象を表現(演算的な)できているのか、といった現存する仮説や定説を疑い、新たな仮説を提唱する。

「文化」と「文明」の概念を定式化すれば(中略)間主体的な場の、二つの回路形式のことえある。別の言い方をすれば、人間相互の関係のファイバーを通じて、情報を生み出し、記憶し、伝達するための、二つの戦略のことである。
理論とは、人間相互の関係の、情報を生み出す回路なのだ

このあたりは、プラトンの「国家」がベースとしてある。

そのような都市(前述では全体がプログラム化された都市)をおよそ思い浮かべることができるためには、思考のカテゴリーを地理学的なものから位相学(トポロジー)的なものに切り替えなければならない。

コーヒーカップとドーナツは位相学(位相幾何学)的に同じ形である。

投企しようという都市を地理的な場所とは考えてはならず、間主体的な場の歪みと考えなければならないのである。その意味で、未来の文明は「非物質的」たらざるをえまい、といってよかろう。

文化と文明。当たり前に使ってはいるが、明確な言葉の定義は答えられなかったため、以下参照。

都市とは、人間相互の仮想的(バーチャル)な関係を具象化させるような歪みなのである。
実在とは仮想にほかならないということが分かりはじめた

先に触れたように、実世界もまた仮想現実である。そして、すべては「データ」によって生成されている。


よろしければサポートお願いします!今後の制作活動費として利用させていただきます。