【雑記】ポートレート写真

先日、台東区蔵前にあるギャラリー「空蓮房」で催されている展示を観に行った。

兼子は撮影の際、被写体に歌ってもらいながら撮影したという、男性と女性のスナップ的ポートレート。横位置2組。

横山は吃音のため、うまくは伝えられないながらもその被写体を撮影したいという思いをもちながら撮影した、椅子に腰掛けるスタイルで撮影したスクエアフォーマットの男性と、仕事着か作業着を想起させる装いの、真っ直ぐと見つめるスタイルの縦位置の女性写真の2点。

山本はフランスで出会った双子の少女を、場の雰囲気にあったブルーを基調とするスクエアフォーマットで、バストアップの少女と椅子に座り髪の毛でその表情は伺えない少女の2点が展示されていた。フレームの選択にも拘りをみせ、絵画的な印象もみてとれる。


三者ともに共通するのは「被写体に対して興味を持って撮影した」という動機の点である。普段ポートレートは撮らない(というか、写真すらほぼ撮ってはいないが…)私にとって、なぜ他者を撮りたいと思うのだろうかと、展示されていた写真を見つめながら考えていた。

私の脳裏に浮かんだのは、単に「撮りたい」と思ったからだ、というシンプルな理由に行き着いた。ポートレートは撮らなくとも、かつて私は建物や陰影などは撮っていた。ではなぜそれを撮ったかというと、「撮りたい」と思ったからとしか答えようがない。

そうして撮影した乱雑で膨大な写真群からセレクトして、無理やりになんらかのテーマに当てはめる従来型の写真家的制作方法は私には不向きであった。(話しがズレていくので、この点については機を改めて書く、かも?)


ただし、被写体が人物の場合には、さらなる意識が向けられる。なぜ撮影者は「この人」を撮りたいと思ったのか。写された人物を知らない鑑賞者(=私)にとって、どこに惹かれてこの人を撮ったのかは知る術もない。撮影者にとって特別な人物なのかもしれないし、フォトジェニックだったからかどうかは語られない限り撮影者しか知り得ないであろう。

そうした思いでみていると、表層的な人物像から、撮影している状況へと意識が移っていく。ファインダーを覗いているのはほかでもない、私自身である。

ファインダー越しに被写体をみてみると、撮影者と被写体との関係性が三者三様であるようにみえてくる。

互いに楽しみながらの兼子。じっと見つめながら緊張感がありつつも真摯な態度が感じられる横山。場の変化に柔軟に対峙しながら静かに切る山本。


次に意識が向くのは表象、つまり選択の問題である。何カットか撮ったであろう写真のなかから、なぜこのカットが選択されたのか。なぜこのサイズでなぜこのフォーマットなのか。選択(選別)すること(もしくはしないこと)こそが、アイデンティティ(作家性)ともいえるであろう。

気になったのはそれぞれ2点ずつ展示されており、兼子と山本は同一フォーマットとサイズで揃えているのに対して、横山は意図的ではあろうがそれぞれ異なっている。なぜ男性の写真はスクエアで、なぜ女性の写真は縦位置なのか。なぜ男性の写真よりも、女性の写真の方が大きくする必要があったのだろうか。鑑賞者に対して、行為や動機といった側面よりも、見え方・見せ方の点に意識が向くのは非常にもったいない。


そして奥に1点飾られていたのは、ギャラリーのオーナーであり写真家の谷口が撮影した氏の父の「遺影」が飾られていた。実のところ、この写真が一番強度をもっていたといっても過言ではない。

なお余談ではあるが、先月赤々舎より出版された谷口氏の冊子に私も少し携わらせていただきました(表紙画像は前冊のものですが・・・)。

https://artscape.jp/report/review/10185270_1735.html

「遺影」とは、本人のために撮影される写真ではない。なぜなら、一般的に遺影とは本人が鑑賞するためではなく、残された家族などが見るために撮られる写真なのである。

「遺影」という文字(言葉)をみると、そこに写された被写体はすでに他界していると想像するが、解説をよむと撮影されたのは氏の父が傘寿を迎えた年、遺影を撮ってほしいと息子(=谷口氏)に依頼して撮影されたポートレート写真である。なお、遺影の本人は現在96歳で、いまなおご健在だそうだ。

このとき、写真(表層)と文字(言葉)との問題が立ち上がる。文字(言葉)によって鑑賞時の意識が操作されるのである。

たとえばあるポートレートのタイトルが「恋人」とあれば、撮影者と被写体とは恋人同士と類推し、「1997-2021」とあれば、もうすでにこの世にはいないというように、鑑賞者は文字(言葉)によって写真の意味を勝手に妄想する。そこに写されているのはAIによって生成された、実在しない人物のポートレートであったとしても、である。文字(言葉)は容易に写真を印象操作する。写っているものが「真実」かどうかなど、もはや意味をなさない。


ヴィレム・フルッサーは、写真家とはホモ・ルーデンス、つまりカメラという装置を使って遊ぶ人だと指摘する。「写真」は写真家によって生成されるものではなく、カメラに代表される装置によって生成されているにすぎない。

では、現代において写真家に求められているのは何であろうと考えたとき、最終的なアウトプット=展示した作品にいたるまでの思考のプロセスなのではなかろうか。つまり、極論をいえば提示される表層は「何だってよい」のである。そこに対して勝手に意味付けをしてしまうのが鑑賞者の性(無意識の習慣)といってもよい。


ちなみに、「遺影」とはいつ頃から始まったのだろうと気になった。西洋絵画でいう肖像画的な感じで古くからあるのかなと想像していたら、江戸後期~明治初期に流行した「死絵(しにえ)」の説が有力だそうだ。

死絵はやがて写真に取って変わられたそうだが、写真の誕生と同時期であるのは、ある種必然なのかもしれない。


展覧会のテキストのなかに「八識」の記載があった。仏教用語であろうと推測したが、はじめてみる用語であったため調べてみた。

五感に対応する1〜5、フロイトに代表される意識(無意識)。さらには末那識(執着心)、阿頼耶識(カルマ)というのがあるという。

やはりこれからの時代を読み解くためには西洋哲学なのではなく、すでに明示されている仏教的な教えなのだろうか、と考えてみたりもした。


写真家によって「撮影」され提示された「写真」そのものについては、正直なところ面白味があるものではない。単なる写された「写真」でしかないのだ。撮影して選択・プリントすることが「写真」であった時代は、すでに過ぎ去ってしまっている。

カメラを用いて生成されるものが「写真」であり、そこには撮影者の思いなどが「写っている」なんていう幻想は一度捨て去り、なにが「写真となる」のかを思考する。その思考実験のヒントは、日常生活のなかに潜んでいるのかもしれない。




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