自分のペースで言葉を飲み込むこと

情報の洪水に流されないよう気を付けようと、最近思う。
何か手持ち無沙汰になるとFacebookやTwitterを開いてしまう。そこでは喋ったこともないおじさんたちが何かを主張している。話したことのある人は少数だ。

そのときのタイムラインに乗っかった情報にリアクションをし、拡散する。ぼくらはプラットフォーマーが決めたアルゴリズムによって触れる情報を決められ、感情が左右される。自分が見たい情報だけを見て、他人の主張に触発され、再利用するかのようにまた発信する。

ある種の化学反応は刺激をもらえるのだけど、その刺激はいま本当に必要なものなのかは自問しなければならない。巨大プラットフォーマーはぼくらの可処分時間をいかに奪うかが大事なことで、そのためならなんでもする。情報のファストフード店で多量早食いをしているのがインターネットに生きる現代人の特徴だ。

結果として21世紀的ポピュリズムが生まれ、またしても人類は同じ過ちを繰り返す。テクノロジーは発展しても、人は本質的にはずっと変わっていない。これは、良くも悪くも。
人を変えようという話ではないが、情報の洪水に溢れた世の中で自分はどう生きていくのか、どんな態度で情報に触れるのかをもう一度立ち返る機会をもらったのが今回読んだ『遅いインターネット』である。

良質な情報を選択し自ら批評的態度をもって社会に向き直す。新しいインターネットの使い方は、最後に筆者が提示したやり方だけではなく、読んだ人の数だけあっていい。インターネットを介して自己や社会に向き合う姿勢を正す処方箋だ。

本の振り返りも数日かけて言葉にしてみる。その場の鮮度感と、じっくり向き合うバランスを保つ。その二つはブランコの両端に位置していて、ぼくは水平に保とうとする。小さい頃は近くの公園で誰もいないブランコを水平に保つ遊びをやっていた。自分のモノに向き合う自然なペースってそういう些細なところにでているのではないか。ふと思った。

ずっとマイペースでは間延びしてしまうけれど、流れの速い世の中に生きる現代人は遅すぎるくらいのスピードでモノに向き合うのが良いバランスかもね。

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