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確かなものは「自分」だけ


電気を付けずに湯船に浸かり、斜め上の壁を見つめる



夏の夕方 まだまだ外は明るく その光が浴室内を照らす

温かいし 静かだ




4ヵ月前はこんなことありえなかった



湯船に浸かることはあり得なかったし
そもそもお湯自体 やかんで沸かすか太陽光で温めなきゃ無かった



純粋な静けさもあまり無かったような

我が家の周りは住宅街だったので、教会からの爆音や近所の子供の声 それを叱る親の声と 生活音に満ち溢れていた気がする

向こうの街はまさに喧噪真っただ中といった感じで
多くの人が往来し、ひとたび歩けば いっぱい声を掛けられたしからかわれた

こちらで往く街は静かで、歩く人はほぼいない 車がたくさん走っている




同じ世界だと思うには、やっぱりなんか違和感がある

それだけ違いすぎる


同じ世界なはずなのに 同じ地球なはずなのに

到底そうは思えないような隔たりがある気がする


個人的に、時差という概念もたまに信じられなく思うときがある

こっちでは早朝なのに、向こうは深夜だったり

こっちは夜の7時なのに、向こうはお昼過ぎの1時だったり

何それ どゆこと?と思う

(逆に世界で時計を一つにして、7時が朝の国もあれば夜の国もあるみたいでも面白かったかもとも思う)


そんな風に思えるのもきっと

いろんな世界が「自分」という存在を経由して
別々のものが「自分」という入れ物を通して

一括りにされているからなのだろう


どんな人でも、それ自体 唯一無二の媒体なのだと思う

経験したこと・読んだ本・見た景色・行った場所・付き合った人・交わした言葉
それら自体は全く別々なのもののはずなのに、あなたが触れることで 行うことで 通過することで、あなたという文脈で括ることができる 括れてしまう


あなたを通じて「あなた」という括りで括られる
そんな括りは他にはない あなたにしかできない

だからこそ、異次元のものをぶち込んでできあがっているからこそ
他人から理解されるのは難しそうだし、自分ですらよく分からないときもある


湯の張ったほのかに明るい浴室 と 太陽光で温めた水で浴びるシャワー

全く別なものなのだけど、自分にとっては しみじみと感じられる対比になっている



あの世界と今いる世界が同じなんて信じられない

変わりゆく外界・自分の外側 大きな差があるそれら
自分的には全く意味が分からないけど

裏腹に

それらの差異が自分のものになっていて
その差に楽しみを覚えている自分もいる


コロコロ変わる外界よりも、それらを括れている「自分」の方が確かなんじゃないか



そんなことを思って

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