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確かなものは「人との間」に

変わり変わりゆく外の物々。
それに対して というか そんな中でも、自分は自分のまま。
全てを取り入れて 受け入れて 引き受けて。

流転していく外の物々よりも
内の自分の方が結局確かなんじゃないかと思ったり。

それの対比で、他人との関係の中にある 確かなものについて。


同じ国籍の中でも、当たり前のように合う人・合わない人がいる。
細々とした環境は違えど、同じような文化・慣習の中に生きる人同士でも合う・合わないはやっぱりある。これは当たり前のこと。

国や住む環境・文化が違えば、さらにまた合う合わないが出てくる。
(人格すら合うかどうかは人によるのに、外部要因の文化や慣習などが入って来たらまたさらに合うかどうかは疎遠になってしまう。)
もちろん部分的に合うな~と思う人はいるし、仕事の話は問題なくできる人もいるし。


エチオピアにいたとき、いわゆる気が置けない友人・同僚みたいな人は多くはなかった。もちろん、毎朝握手して 肩を2・3度合わせ合って 時にはハグし合う同僚は多くいたし、時々遅刻したりすっぽかしたりするけど 協力的な技術者の方とはよく連絡を取り合った。

本当に、その人となら なんとなく近いビジョンを持てている気がするし 話すうえでの「前提」が近いかもと思えるのは一人だけだった。彼は向こうに行った当初からよくしてくれたし オフィスで会うたびどこか安心感があった。彼なら通じる みたいな気がした。



そんな周囲がある中で、自分はかなり浮き沈みがあった。

活動が思うように進まず、他の隊員はそれぞれ関係性をつくってやっているのに 自分は…と思うことも多かったし、アジア人に対するからかいで 地味に削られる日々で 心からの多量出血で苦しい時もあった。

ネットや電気も不安定で無いときもあったので、本も読みつつも 自分の中で悶々と考える夜もあった。


そう思うと、あの頃の自分はけっこう揺らいでいたのだと思う。
瞬間瞬間で心の在りようが変わる日々の中で 山と谷が瞬間的に訪れ 入れ替わる日々の中で、自分はかなりもまれていたんじゃないかと思う。


そんな日々揺らいで 変わっていた自分を見ると、自分はそこまで確かなものではないのかなと思ってしまう。船旅に持つ羅針盤のように 自分のことを思っていたけど、周りの環境や磁気に影響を受けてしまうことを考えると 案外確かとは言えないのかもしれない。



対して、前述の気の合う同僚とは 会って話す度 この関係性はきっとお互い確かな基盤の上に乗っかって成り立っているものだと信じれた。(もちろんあっちがどう思っていたかは分からないけど、少なくとも自分はそう思っていた。)
日々握手やハグをする同僚や、「外国人!」から「日本人!」そして 「ケンジ!」へと呼称を変えていった近所の子供たち。彼らとの関係は 現地での生活が進むにつれ(特に1年経った後くらいから。)、自分の中の支えになっていったような気がする。

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そんなことを思うと、日々アップダウン 五里霧中する自分の心よりも 他の人との関係性の方が 一度築けてしまえば かなり確かな 確固なものだとも思う。

これは日本だろうと 外国だろうと変わらない気がする。他との関わりは、x軸とy軸の2次元で右往左往する自分に 3次元目のz軸を与えてくれるような、自分という枠を飛び越えた鮮烈さがある。自分の中でうじうじ考えていても分からないことが、人と話せば 実はシンプルだったなんてこともある。


船旅において、自分が羅針盤だとすると(100%そうとは言えないけど)、任地の様々な人たちは 空に光る星や浮かぶ雲 もしくは灯台みたいな存在だったのかもしれない。
彼らは、動かない というより 自分たちの規範に沿って動く、それは必ずしも私たちの期待に沿うわけではない。ずっとそこに在る・居るのは変わらず、逆に変えられるのは うちらが彼らをどう見て どう捉えるか だと思う。空に光る星を 何をのんきに光りやがってと思うのか うちらを静かに見てくれてるんだなぁと思うか、突如襲う雨を 害悪として見るか 潤いを与えてくれるものとして見るか。そう捉え方を変えることで、星や雲は変容しないけれど 人は変容することもある。それはある意味 希望でもある。


私たちが星や空を見上げるまなざし(向こうが私たちを見返してくるまなざし)は変わらない。見方や解釈といったうちらの中のことが変わったとしても、うちらが見ている・見られているという事実は変わらない。自分がどれだけ悲嘆に明け暮れていようと どれだけ元気はつらつであろうと それは変わらない。
人ー人 と関係性を表すとしたら、-の部分=その人たちの間というのは その人たちなりの確かさがあるんだと思う。それぞれの人が内側でどう変わっても その間のーさえあれば自分もしっかりしていられるような そんな気がした。


世の中にはそうそう確かなものなんてないのだろうけど、その中でも手探りでなんとか探している。

自分こそ確かだ というのもある。世界は自分が認知するからこそ存在している。
それと同じくらいの正しさでもって、自分と他の人・物の関係性 それで世界は成り立つし 確かなものになる というのも言えるんだと思う。

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人が変わっても 場所が変わっても 時代が変わっても

人と人との間にあるもの の確かさは変わらないんじゃないかな と思う。

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