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作品を味わうために知識は役立つのか?

1. 知識と美的経験の関係を考えるモチベーション

パブロ・ピカソの《アヴィニョンの娘たち》を初めてみたとき、下手だな、と思ったことを覚えている。もしかしたらあなたも同じ感想をいま感じるかもしれない。あるいはあなたは首を振って、「これはキュビスムの素晴らしい作品だ。三次元の世界を二次元に表現するために、さまざまな視点を一つの画面に同時に描き出そうとするピカソの挑戦の痕跡なんだよ」と教えてくれるかもしれない。

こうした話を知ったあと《アヴィニョンの娘たち》をみてみる。すると、さきほどとは違った印象で鑑賞することになるだろう。いままで気づかなかった要素に気づいたり、構図のおもしろさに驚いたり。かくのごとく、人が絵画をどのようにみて、どのように感じるのかは、その作品について知っていること、信じていることに影響を受けると思われる。つまり、知識によって絵画の鑑賞経験が影響を受けることがある。

本稿では、知識を得ることで、絵画から美的経験を得やすくなると主張する。

もし知識によって美的経験が得やすくなるなら、芸術教育の必要性を明確化できるし、美的経験を心理療法に役立てる研究に対して、知識と治療の関係を論じることができるようになるかもしれない(Sarasso 2020)。教育・医療分野における美的経験をめぐる議論にもかかわってくるだろう。

本稿の構成は次の通り。第二節では美的経験について説明し、第三節では美的経験を知覚心理学の「分散した注意」の概念を用いて特徴づける。第四節では、注意が知識の影響を受けることを論じる。第五節では、知識が注意の向け方を変化させ、分散した注意を起こしやすくすることで、同時に美的経験も得やすくなると結論づける。

2. 知覚の観点からみた美的経験

美的経験とは、美的な文脈で現れる情動的に重要な経験のことである。たとえば、一枚の絵画をみてはっと息をのむとき、森のなかで鳥のさえずりにうっとりと耳をすますとき、レストランで美味しい料理に舌鼓をうつとき、私たちは美的経験をしている。

美的経験にはさまざまな見解がある。たとえば、古くはカントが『判断力批判』で提示した見解に始まり、そのあと多くの論者によって美的経験の構造や特徴が論じられてきた(ステッカー 2013)。また、心理学でも美的経験について研究されている(Nanay 2016; Leder and Nadal 2014)。

本稿では、知覚の観点から美的経験を特徴づけたナナイの説にもとづいて美的経験を理解する。ナナイは、「美的経験のいくつかの典型的なケースでは、注意が一つの対象に集中しているが、その対象の多くの特徴間で分散している」と主張した(Nanay 2016, 13)。この特別な方法で行われる注意を「分散した注意」と呼び、特定の美的経験における中心的な特徴とした。ここで「分散した注意」とは、知覚心理学で古くから区別されている注意にかかわる概念である。

[注]ナナイは、たった一つの美的経験なるものがあるのではなく、さまざまな種類の美的経験があると主張している。その中でも、分散した注意に特徴づけられる美的経験は、芸術や文学、哲学分野で影響力のある、典型的なケースであると述べている。

ナナイは、「集中した注意」と「分散した注意」の区別に、新たな概念的区別を加えた。それは、注目しているものが対象なのか、その性質なのかについての区別である(Nanay 2016)。

まず、対象に対する注意と、性質に対する注意について説明しよう。一方で、自分の前を通っている車に注意を向けるときに、私たちはひとまとまりの対象として車に注目している。他方で、その車のスピードや色に注意を向けるとき、私たちは車の性質に注目している。対象はたくさんの特徴を持っているため、車の色に注目するだけでなく、車体の形に注目することもできる。私たちは一つの対象がもつ、一つの性質から別の異なる性質へと注意を転々と移動させることができる。

さて、私たちの注意はふつう、対象に対して分散している。つまり、複数の対象に注意を向けている(たとえば、道を歩くとき、轢かれないようにこちらにやってくる何台もの車に注目している)。対して、一つの対象がもつ多くの異なる性質に注意を転々と移動させることは珍しい。たとえば、目の前の道路を走っている一台の車に注意を集中させ、色と形とスピードという性質に注意を分散させることはなかなかないだろう(そんなことをしたら轢かれてしまう)。たいていは、目の前を通る複数の車に注意を分散させたり、危険かどうかを判断するために近づいてくる一台の車のスピードに注意を向けたりする。

分散した注意とは、限られた処理リソースを一般的なケースとはかなり異なる方法で割り当てることだといえる。もし、注意リソースがたった一つの対象に対して、そのさまざまな性質に割り当てられるとしたら、それはどんな注意になるだろうか?たとえば、一つの花に注意して、その花びらのかたちや色や風に揺れる動き方に注意を向けるとしたら?ナナイはそうした「対象に集中し、性質について分散した注意」を美的経験と呼ぶ(Nanay 2016)。

[注]注意には、意識的な注意と無意識の注意があるが、美的注意で前提としているのは意識的な注意である。

[注]美的注意を分散された注意と考えることで、美的経験に関する議論でよく取り上げられるカントの無関心説と関連づけられる。カントの無関心説では、美的経験をするためには実践的な関心を持ってはいけないとしている。この実践的な関心を注意という観点から考えると、限られた数の特徴に集中した注意として説明できる。つまり、対象の性質に集中した注意をしているときは美的経験をできず、対象の性質に分散した注意をしている状態でこそ美的経験ができるのだ。

3. 知識によって絵画から美的経験は得やすくなるのか?

美的経験についての知覚的な特徴づけを紹介した。次に、注意と知識の関係について考えてみよう。注意が移動した、とはっきり分かるケースとして目の動きがある。

[注]すべての注意の変化が目の動きの変化から捉えられるわけではないが、多くはそうである。

ここで、芸術作品をみたときに、芸術の専門家と素人の目の動きのパターンを調査した研究を紹介しよう。この研究では、少なくとも専門家(アーティストや5-11年学校で訓練を受けた人)の目の動きは素人のそれよりも、空間的により分散されていた。人物がいる場面の絵を見るとき、素人の眼球運動は人物(特に顔)に集中する傾向がある。一方で、専門家の眼球運動は絵の表面にほぼ均一に分散する傾向があった(Vogt and Magnussen 2007)。

中央の上下段は芸術的訓練を受けていない参加者の眼球運動、右側の上下段は専門家の眼球運動が示されている(Vogt and Magnussen 2007)

さらに、知識や期待などの認知によって注意がトップダウンの影響を受けることがわかっている。認知は視覚プロセスのなかで、「初期視覚が働くまえに特定の場所や特定の性質に注意を向ける」部分に影響を与える(Pylyshyn 1999)。つまり、知識によって、対象のどの性質に注意を向けるかが影響を受けるのだ。

[注]初期視覚は機能的に定義されている。Pylyshyn 1999で理解されているように、初期視覚の神経解剖学的位置は正確には分かっていない。しかし、その機能的(心理物理的)特性は、ステレオ、運動、大きさ、明るさの恒常性の形成に関わるさまざまなサブステージのマッピングや、注意や学習の役割など、長年にわたってある程度明らかにされてきた。

ここから、認知によるトップダウンの影響によって、注意の向き先が変化するといえる。最後に、絵画を鑑賞するときに知識がどのように美的経験とかかわってくるかを考えよう。

絵画のタイトル、作者のプロフィール、美術史に与えた影響、モチーフの意味、画材に関する知識など、知識を得れば得るほど、鑑賞時に注意を向けることができる性質が増えていくと考えられる。たとえば、フェルメールの《牛乳を注ぐ女》を鑑賞するとき、フェルメールが普段は裕福な暮らしをしている人をモデルにすることが多いことを知っているなら、この絵のモデルであるメイドに注意が向くだろう。また、メイドが着ているスカートのエプロン部分の濃く鮮やかな青色にラピスラズリが使われていること、メイドの服が黄色なのは青の補色だからということを知っていると、服の色合いに注意が向けられる。

《牛乳を注ぐ女》
https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio/kunstenaars/johannes-vermeer/objecten

このように、知識が増えることで、知識がない状態よりも注意を向けることができる絵の性質が増えると考えられる。そして、注意を向けることのできる性質が増えることで、分散した注意が発生しやすくなり、美的経験を得られる可能性も高くなると思われる。

この主張に対して、次のような疑問が考えられる。「知識が増えるほど美的経験を得られる可能性が高いとすれば、専門家は美的経験をする可能性が非常に高いと考えられる。しかし、現実的にはそうは思えない」。この疑問は正しい。知識が増えるほど美的経験はしやすくなると考えるが、美的経験にはコントロールできないという特徴もあり(Nanay 2016)、専門家がつねに美的経験ができるとは限らない。美的経験の中心的な特徴である分散した注意は、注意が対象への実践的な関心から解放されたときに発生する。つまり、専門家が特定の目的に沿って絵を鑑賞していたり、絵を鑑賞しながら別のことに気を取られている(今日の晩御飯は何だろう、など)と発生しづらくなる。そのため、知識が増えるにつれ美的経験のしやすさは高まるが、必ずしもできるとは限らない。

知識が増えるにつれて、「より深く」美的経験できるのか?という疑問もあありえるが、次のような仮説を提示するにとどめたい。美的経験の「深さ」には知識はあまり影響を及ぼさず、美的経験の「しやすさ」を高める方により大きく影響するのではないか。

第二の疑問として、絵画に関する知識としてさまざまなものがあるが、どのような知識が分散した注意を起こしやすいのか?という問いが考えられる。こちらは興味深い問いであり、現状では明確な答えはない。ただ、タイトルの存在が、注意の移動を特徴とする高い動的エントロピーと関連しているという研究がある(Ganczarek et al. 2022)。作者のプロフィールや絵画の美術史上の影響のような、絵画の表面から直接知覚できない知識と、モチーフや画材などの絵画の表面から直接知覚できる知識のどちらが、注意の向け方に大きな影響を与えるのかは今後検討する価値があるだろう。

4. おわりに

本稿では、美的経験を知覚心理学の「分散した注意」の概念を用いて特徴づけ、注意が知識の影響を受けることを論じた。そして、知識が注意の向け方を変化させ、分散した注意を起こしやすくすることで、同時に美的経験も得やすくなると結論づけた。知識と美的経験の関係について本稿で論じられたものはほんの一端に過ぎない。たとえば、美的経験を起こしやすい知識と、そうではない知識の区別はあるのか?絵画のジャンルによって、美的経験を得やすくなる知識は異なるのか?「集中した注意」による美的経験では、知識は美的経験のしやすさと関係があるのか?美的経験の強度と知識は関係があるのか?など、さまざまな疑問がまだ残っている。作品鑑賞と知識の関係についてさらに論じていきたい。

5. 参考文献

  • Ganczarek, J, Karolina P, Anna S, and Magdalena S. 2022. “Titles and Semantic Violations Affect Eye Movements When Viewing Contemporary Paintings.” Frontiers in Human Neuroscience 16 (March): 808330.

  • Leder, H, and Marcos N. 2014. “Ten Years of a Model of Aesthetic Appreciation and Aesthetic Judgments : The Aesthetic Episode - Developments and Challenges in Empirical Aesthetics.” British Journal of Psychology 105 (4): 443–64.

  • Nanay, B. 2014. “Cognitive Penetration and the Gallery of Indiscernibles.” Frontiers in Psychology 5: 1527.

  • ———. 2016. Aesthetics as Philosophy of Perception. Oxford, United Kingdom: Oxford University Press UK.

  • Pylyshyn, Z. 1999. “Is Vision Continuous with Cognition? The Case for Cognitive Impenetrability of Visual Perception.” The Behavioral and Brain Sciences 22 (3): 341–65; discussion 366–423.

  • Sarasso, P., M. Neppi-Modona, K. Sacco, and I. Ronga. 2020. “‘Stopping for Knowledge’: The Sense of Beauty in the Perception-Action Cycle.” Neuroscience and Biobehavioral Reviews 118 (November): 723–38.

  • Vogt, S, and Svein M. 2007. “Expertise in Pictorial Perception: Eye-Movement Patterns and Visual Memory in Artists and Laymen.” Perception 36 (1): 91–100.

  • ステッカー, R. 2013.『分析美学入門』森功次訳, 勁草書房.


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