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男一人の『美少女戦士セーラームーン cosmos 』鑑賞記。見よ、この美しい閉塞を(ネタバレ有)

あらすじ(前編)

タキシード仮面消滅! 下手人は金ピカの三蔵法師、もしくは前髪四連コロネ女。こやつ何者!? うさぎは眼前でまもちゃんが消滅した事実がツラすぎて、自らを記憶改竄、現実逃避してしまう。

そんなうさぎの苦しみをよそに、金ピカコロネの手下どもが次々に襲ってくる。セーラー戦士はヒーローサイドの専売特許じゃねェ! と言わんばかりに、恥ずかしい衣装を着た女どもが続々と登場!こいつらコンパチのくせに強え! 正規セーラー戦士たちは画面の内外で敗北、まもちゃん同様に消滅させられたあげく、核であるクリスタルを奪われてしまう。

その間、変身後恥ずかしい姿になってしまうテクノ系宝塚三銃士香炉から呼ばれて飛び出て水樹奈々空から飛来した超幼女ちびちびもパーティに加わり、まもロス状態のうさぎが宝塚のリーダーとキャー (//∇//) な展開になったりしながら徐々に金ピカコロネ女の正体が判明、こやつこそ悪の首魁、破滅の戦士ことセーラーギャラクシアだ!( cv 林原めぐみ)

月野うさぎ「――思い出しました」

未来の夫を眼前で消し去ったこやつをぶっ倒し、クリスタルを回収すれば仲間も復活するはず。うさぎはハラを括る。カチコミじゃ!

あらすじ(後編)

しかし状況は想像以上に悪化していた!

敵の侵入路を調べてる途中に家宅侵入されていた年増女おかっぱ食パンマンカレーパンマンも既にやられちまった! さらに後編開始早々に宝塚三銃士、さらに水樹奈々が敗退。やべェ!

ここで未来世界に里帰りしていたちびうさ参上! 未来世界では、まもちゃんとセーラー戦士たちは半透明になっていた! このバックトゥザフューチャー的演出が意味するところはつまり! うさぎたちがピンチに陥っている! 過去に戻って母を救わねば!ちびうさはマイナーリーグから急遽昇格させたようなキバツな頭のセーラー戦士ども四人を引っ提げて加勢する!

仲間を得た心強さもつかの間、ギャラクシアがイヤがらせで作ったニセセーラー戦士ニセタキシード仮面がうさぎを襲う! ニセセーラー戦士の闇堕ち必殺技バンク! ニセタキシード仮面の醜態! 精神攻撃に耐えつつ、うさぎはついに本丸に乗り込む!

究極の選択

ギャラクシアを追ったその先には、七色に発光するゲーミング滝、ギャラクシーコルドロンがあった。ここはすべての星が生まれ還る場所――つまり宇宙版ガイア理論、要するに哲学ゾーンだ! お察しの通りここからは観念論バトルが始まる! ギャラクシアより上位の、悪の集合的無意識=カオスも登場! 要するにコイツが全部悪い!

ギャラクシアはセーラー戦士のクリスタルを滝にポイ、まもちゃんをトンして遺棄。未来が改変されてちびうさは消えてしまった! ちびうさはセワシではない! 親が変われば当然、存在そのものも消えるのだ。

うさぎ絶望して発光して爆発! コイツをカオスと対消滅させて、私こそ宇宙のドン! これがギャラクシアの狙いってワケ。

だがギャラクシアの目論見は甘かった! 作戦失敗した挙句うさぎに助命されたギャラクシアは諦念を抱き、あっさり消滅。敗北を認めるんじゃあない! いいキャラだったのに惜しまれる。

そんなこんなで超幼女ちびちびが突如成長、なんとその正体ははるか未来における究極のセーラームーン、セーラーコスモスだった! 「わたしはわたしだよ」――このセリフは壮大な伏線だったのだ!

はるか未来、無限に続くカオスとの戦争に疲弊したコスモスは、その根源を断つべく現代に遡行したのだ。彼女は過去の自分=セーラームーンにコルドロンを破壊させようとする。コルドロンを破壊すれば、カオスが生まれ得ない未来が訪れる。しかし、それは新しく生まれ出づる生命をも否定する選択なのだ。そこにはコルドロンに溶解した仲間たちも含まれる……

――月野うさぎ、どうする!?

感想

茶化したようなダイジェストにしてスマン! 正直、こういう処理をしないとやり切れないくらいキツい内容だった! 元はといえば DAOKO の主題歌がものすごくよくて、予告編を MAD 的にリピってたら無性に見たくなったのがきっかけだ ↓

実はセラムン自体は 1 話も見たことない上に原作も未読。映画館にいた自分以外 99 % の女性ファンのみなさん、ごめんなさい!

思うに、この作品は一つのセカイ系なのだ。作中で高らかに「男はお呼びではない」と宣言される通り、それは美少女による美少女のための美少女の世界観で、さらに彼女たちはそんな世界観で、美少女と戦っている。

それは美少女以外の「他者」は存在し得ない世界観なのだ。うさぎたちは銀河を守るために戦うが、守られる人々がどういう存在なのかは、なぜか描かれない。たとえば家族、地域社会、セーラー戦士ではないクラスの友人。明らかに守られる側の他者が、そこにはいない。存在しない他者には当然「男」も含まれる。

さらに後半ではセーラー戦士自体がどんどん消えてしまって、うさぎ個人の懊悩、葛藤、絶望、決意の描写が全体を占めていく。うさぎは未来を信じて、というより、信じるという行為に意味があることを信じようとするかのように、孤独に戦い、自己を使命に純化させていく。

そうやって純化させた果てに、うさぎはようやく仲間たちと再会する。個人的にこのシーンが一番キツかった。マジに椅子から立てなくなってしまった。もうどうにも物悲しく、見てはいけないものを見てしまったような気がした(ここで少し泣きそうになる)。キャラクター全員が白衣を着ていることからも、これはおそらくあの世の暗示だろう。うさぎはその後、世俗に戻る描写があるが、他の戦士たちにはない。結婚式のシーンはいつの時代かわからないし、そこにはうさぎの家族はいない。美少女戦士たちだけの空間がそこにある。

「現代的な価値観」がある。そして「美少女の価値」がある。昔は一致していたが現代では必ずしも一致はしてない

などとジョジョの名台詞からパクって引用したわけだが、まあプリキュアを見ればわかるだろう。あらゆる他者を属性から肯定し、その思想を習合し、普遍的な何かを見出そうとするポジティブな姿勢こそ、現代社会が求める価値の有り様なのだ。現代社会においてお茶の間に何かしら価値を届けようと思ったら、その姿勢こそ不可欠のものとなる。

しかるに、セーラームーンの描く悲劇は時代に逆行している。そこにはまず美少女という隠れた前提(タイトルは隠していないが)があり、その属性だから許される他者への無視がある。それも、極めて無意識になされる無視だ。終盤でコスモスが望んだ全ての破壊も、うさぎが選んだ、闇をも包摂する投身も、実はどちらも他者への無視に他ならない。己を投げ捨てれば他者も消えてしまう。

この姿勢は決して社会に開かれたものではない。頑張ったり、努力すれば誰もが得られるようなものでもない。文字通り美少女という属性からのみ生まれる閉塞に他ならないものだと思う。

で、ここまで前置きした上で忌憚なく述べると、自分はこの閉塞を美しいと思った。同時に、この閉塞への憚りのなさをこそ称賛したい。自分が息苦しさを覚えつつも最後まで目を離せず、むしろこの閉塞に一種の感動すら覚えてしまったのは、間違いなく自分がその世代の人間だからであり、現代的な普遍性に迎合できていない人間だからだろう。

三石琴乃さんのコケティッシュな声は、この忘れられゆく閉塞を、あるいは世界観を、無二の痛切をもってファンに届けるものだったと思う。四半世紀前に完結した作品を声優陣の中で唯一背負い続けるその姿が、作中のセーラームーンと重なって見えたのは自分だけだろうか。

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