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「ありのまま」って言葉を聞いただけで例のディズニーソングを反射的に歌いそうになる

「ありのまま」「純粋」「素の自分」「飾らない」「無理をしない」 

 こういったフレーズに傾倒する人たちが、SNSでは特によく見られます。


 SNSの利用頻度の高い人は内向的な性格傾向が強く、わたしも含め、コミュニケーション能力に難を抱えていたり、満足のいく人間関係を持てていないという自覚のある人が多いっぽいです。 
 冒頭のフレーズに傾倒しているらしい人たちのツイートやストーリーを読んでいると、 他人や状況に合わせて「無理をせず」自分を「飾り立てることもなく」、 「ありのまま」で「純粋」な「素の自分」こそが真に魅力的である、というような主張がぼんやりとなされている感じです。 

個人的にはあまり好きな主張ではないです。 
ある人が置かれた状況、そしてそこに属する他の人たちが、不器用な人に対して無理を強いて、それが不器用な人を苦しめている、わたしの苦しみはそういったものだ、という考え方でしょうか。
それとも、そうして周囲に過剰に気を使いすぎてしまう自分が悪い、といった考え方でしょうか? 

 どういった考え方にしろ、苦痛や不快感の原因に見えたものをすぐさま切断して、ある意味での「敵」を仮想するような考え方は不健康かな、と思ってしまいます。

誰もがありのままで接しあえばうまくいく、 人間関係ってそんな単純でしたっけ? 


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 信頼とは? 

 ということをよく考えています。

どんな関係の、どんな人の、どういった部分について寄せている感情を、自分は信頼と捉えているのか? 

 わたしは猫を飼っています。2匹。 大きい方は次の春にはもう12歳になりますが、どんどんと甘えっぷりが凄まじくなっていってます。オスなので、人間だと普通におじいちゃんの年齢に達してるはずですが、もうかわいいのでなんでもいいです。どんどん甘えてくれ。 

 そうして甘えてくれる猫たちをわたしはとても信頼していますが、猫たちからするとどうでしょうか。 そういう甘えた振る舞いをすることで、おやつの頻度・ランクが上がることを知った上での打算的な行動かもしれません。
そもそも、「打算」も「信頼」も人間のための言葉なので、もっと複雑か、もしくは単純な動機の上での行動かもしれません。 
仮に打算100%で猫が甘えてきていたとして、それは飼い主にとって信頼を裏切る行為でしょうか。 

 信頼とは? 


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 二十歳くらいの頃のバイト先のバーの同僚に、ふわふわのんびりした雰囲気のかわいい女の子がいたんですが、ある日いっしょにご飯を食べている時に、その子のほぼ全ての歯が差し歯と銀歯に入れ替わっていることに気づきました。

ふわふわした雰囲気に似つかわしくないクソいかつい口内にビビるも、理由を聞いてみたところ 

 「ひとり暮らしを始めた頃、何をしても親に怒られないのをいいことに、キャンディをなめたまま眠りについていた時期があった。とてもしあわせな気持ちで眠れて毎日たのしかったが、気づいたら虫歯が手遅れな状態になっていた」 

 とのことでした。 

 「実は反社会勢力の構成員の愛人だ」「度を越したSM愛好家である」 とかいう理由じゃなくて、胸をなでおろしました。 

でも、このエピソードをどう評価するのか、やっぱり反応に困ってしまった。
これかわいいのか?結構ヤバいレベルの非常識では?でも動機自体はかわいいね…?
 よくわかんなくなって、最終的にはその子が食事を摂っているのを見ながら「かわいいな~~」とにこにこしていました。


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人と人の関係やその評価は、それをどこから見るか、によって簡単に形を変えます。
 あらゆる人間関係が相方向の関わり合いの中から出来上がっていくのであれば、どんな関係だとしてもどちら側からの働きかけも不可欠で、それを「暴力」と言い表すと同時に、「包摂」と表現することも可能になってきます。

ベストセラー・ケーキの切れない非行少年にて、

凶悪犯罪を起こしてしまう青少年の中には、そもそも自分の不快感を適切にあらわすための言葉をほとんど持たない子どもが多くいる。
それが「むかつく」という言葉であれば、寂しさも空腹も、全ての不快感をただ暴れることで解決することにもつながってしまう。
 (当方による要約) 

というような記述がありました。 

 世界は単純には出来ていません。
ケーキひとつとっても、長い歴史の中のたくさんの人の複雑な関わり合いの中で作られているもので、それがどう作られているかというのを把握するだけでも容易ではありません。無論、ケーキにとっての「最良の状態」といったものを定義することなどできるわけがありません。 


 どんな状況のどんな関係にあっても、それは一元的で固定されたものではなく、簡単に揺らいでしまうものであることを理解していること、その揺らぎを認識できるだけの言葉を知っていること、関わり合いを持つ人同士にとってよりよい関係を維持しようという意思を持ち続けられること、これらが信頼であるかな、と今は考えてます。 

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