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それでもあなたに愛されたい

愛したからといって、愛されるとは限らない。

愛することと愛されることって、実は全然別のことである。私は愛することはできるが、愛されようと思って愛されることはできない(誰かに愛されるには、私は愛されるべき存在だと自分で認める必要はあるにしても)。それは、こうして書くと当たり前のように思えるが、大人になってからようやく分かったことだ。

オレンジが欲しい相手に向かって、りんごの私がオレンジ色の服を着て「お願いだから愛してよ」と嘆いたところで、無理なもんは無理なのだ。少女漫画によくある「誰よりも思い続ければ叶う」とか、それは起こらなくはない。でもそれは結局相手が「最初はわからなかったけど、君は実はりんごだったんだ」とか「僕はオレンジではなくりんごを求めていたんだ」とかいうことに時間をかけて気づいただけのことである。

どこまでいってもりんごはりんご、オレンジはオレンジ。りんごは、オレンジになろうと必死になるのではなく、りんごを愛したいな、と思う人を見つけるしかない。

もちろん、誰かの目に留まるために努力することはできる。でもそうやって自分をどれだけぴかぴかに磨き上げたとしても、オレンジになることはできないし、愛するか愛さないかはやっぱり誰か次第だ。

だから、愛されることって結構運みたいなところがある。もしかしたらそれこそが運命であり、人生からのギフトなのかもしれない。

思えば私の恋愛は、りんごのくせにオレンジとかぶどうとかになろうとしていたことが多かったように思う。例えば、昔付き合っていた人に「もうちょっと痩せた方がいいと思うけどね」と言われて、必死でダイエットをしたことがある。今ならそんなことを言われた時点で冷めてしまうのだが、当時の私は彼の愛が欲しかった。彼の言う通りの私になれば、彼の愛が得られると思った。そして、りんごの私に価値があると認めて欲しかったのだ。

「彼が私を好きじゃない」というシンプルな事実を受け入れることができなかったのは、私には愛される価値がないと思い込んでいたから。愛される価値がある自分になりさえすれば、彼の愛を手に入れられると信じていたから。

多分、彼の言う通り痩せたとしても、私がどれだけ自分を磨いたとしても、彼が私を好きになることはなかったんじゃないかと思う。愛される価値がないから愛されなかったのではなく、ただ彼がりんごを求めている人ではなかっただけ。私が彼を好きになる理由も意味もあったけれど、彼にはなかった。それだけのことなのだ。

だからもし私が誰かに愛されなかったとしても、そんなに傷つく必要がないのかもしれない、とも思う。愛されることの方が奇跡のような出来事なのだから。愛するか愛さないかは相手の選択だし、相手の心が決めることで、私にはコントロールできない範囲のことである。

それに、愛されたことは私の価値の証明にはならないし、愛されなかったからといって、私の価値が損なわれるわけではない。愛されようと、愛されなかろうと、私は私である。

それでもどうしても、誰かに愛されたいと思うときがある。私にはどうすることもできないのに、どうかあなたがオレンジとかぶどうとかではなく、りんごを求めていて欲しいと願うときがある。

愛されようと愛されなかろうと、私の価値は変わらない。それに、愛したからって愛されるとは限らない。愛されたいと願うのは結局は無駄な努力だと、愛されることは奇跡なのだと、私は十分分かってはいるのに。

それでも、あなたに愛されたい。
私が愛するあなたから、愛されたいと願うのだ。

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