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立春

先日、2月1日に来年の国民の祝日が決まったというニュースを見て、こんな時代になっても今でもなお国民の祝日が自然現象(天文学上の春分日・秋分日)によって決まっている国ってすごくなんかロマンチックだなと感じた。

何年も先の春分の日・秋分の日はだいたい計算することができても、地球の運行状態は常に変化しているため、将来観測した結果が必ずしもこの計算結果のとおりになるとは限らないんだって(国立天文台より)。
だから前年の2月に祝日が決まるらしい。

地球の動きとか、季節とか、そういう人の手の及ばないリズムに合わせて暮らそうとする考え方がなんだか好き。
昔の人は暮らしが自然と結びついていて一層その意識が強かったからか、二十四節気といった古来からの季節のとらえ方の感覚は結構合理性があるような気がして、意識している。

節目はたくさんあった方がいい。
私はいつもリセットするきっかけが欲しかった。

子どものころから、“リセット癖“がある私。
小学生の頃、完璧主義(?)で、持ち物を毎日整えていた。

単に使ったものを元に戻す、ということではなくて、例えば色鉛筆の色の順番をすべて整え、文字が印字してある部分が真上に来るように揃えて、いろんな文房具がお道具箱の中で平行に、隅に揃えてしまわれていないと気持ち悪くて、少しでもずれるのが我慢ならなかった。
誰かが机にぶつかったり、掃除のために机を動かしたりすると、中の道具がずれてしまうから、また揃えなおさなければならない。
そのため、学校が終わってみんなが帰る時間に毎日自分の机の中の物を全部取り出して、揃え直すということをしていた。
他にも、鉛筆は毎日全部削り直す、教科書の並び順、ノートの書き方など、あらゆるマイルールがあって、神経質な子どもだった。

今思えば、一種の強迫性障害みたいなものだったのかなと思う。
マイルール通りに完璧に実行できれば良いけれど、ついさっき揃えたはずのものがきちんと揃っているか不安になって、何度も確認する、というようなことをするので、当然時間がかかる。
私がそうやって無意味なことをしていると、からかってわざとものをずらしてくる子がいたりして、そうするとまた揃え直しになる。
あまり時間がかかっていると、先生が来て早く帰りなさい、と言われる。

マイルールは実は道具の揃え方にとどまらず、姿勢や話し方、心の中のことにまでわたっていたので、思うとおりに完璧にすることは到底できなかった。
自分の理想通りにいかないと、「今日はダメな日だった」となり、その日一日は台無しになってしまい、完璧にできないならと投げやりな気持ちになる。

一年の始まりや新学期には、「今日からがんばるぞ」「今年こそは毎日完璧に過ごそう」と思うのだけど、予定通りいかない日があるとその時点でもうこの一年はおしまいだ、となる。
一日だけならまだしも、台無しになってしまった日々を投げやりになって一年間過ごすのはあまりにもつらい。

思えばマイルールのすべてを完璧にできたことなど一日もなかったし、そもそも不可能なことをルールにしていた。
そんな私には、全てをリセットする“節目”が必要だった。
お正月に失敗しても、下半期からは、と気持ちを新たにし、それにも失敗したら、今度は自分の誕生日を境に「変わろう」「今度こそ完璧にしよう」と気持ちを新たにできる。
節目がたくさんあった方が、失敗してしまって不完全になった無駄な日々が短くて済む。

2月1日は、「重ね正月」と言うらしくて、厄年の人たちのためのお正月という考えがあるらしい。
数えで1月1日に歳をとり、厄年を迎えた人たちが、2月1日にまたお正月を迎えることで、厄年が終わるという都合の良い考えだけど、そういう柔軟なアイデアもなんだか好き。
私もこういういろんなアイデアを借りることで節目をたくさん作りだして、自分の息苦しいルールを乗り切ってきた気がする。

ということで、後厄の私も1月をもって厄年終わりということにします!!

ちなみに大人になった現在も完璧主義が治ったわけではなく、相変わらずお家のなかのものは全て場所が決まっているし、引き出しや棚の中も並行に、隅に揃えて収納してある。
けれど、一度そうして収納したものを何度も改めて確認したり、全部引っ張り出してまたしまいなおすということはしなくても平気になった。

自分一人しか住んでいない家で、自分一人しか触らないもの、というのが大きいかもしれない。
自分がものを整理整頓し、使った後あるべき場所に戻せばいいし、誰かにそれを乱されることもないのが安心する。

ペットを飼いたいなと思ったり、いつか誰かと暮らしたいなと思ったりするけれど、いざそうなったとき、自分のこういう神経質な部分とどう折り合いをつけるのかは悩むだろうなと感じる。

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