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卦を読む=楽譜を読む

「ともだちに紹介するときのWEBとかないの」
と言われて、書き始めたものの、亀の歩みだった難所のうちの一つ。

断易(卍易)では、コインの裏表という偶然から、その人の潜在意識を「みえる化」して、目指す状況への現在地を読み取ります。


「卦を読む」行為者ー「私」の立ち位置を言語化する

ここが進まない。。。

でも、糸口は意外な、いえ身近なところにありました。
東洋の易について書くヒントは西洋クラシック音楽に。

ーーー 思い付き
作曲家の書いた楽譜を演奏(再現)するという行為において
[演奏者]の立ち位置は、易者に似ているのでは。

作曲家の書いた楽譜を、一種”おきて”のように重要視するのは
西洋クラシック音楽(バッハ、ベートーヴェン、モーツァルト等々)の
大きな特徴の一つですが、下記のように書いてみると不思議としっくり。

「作曲家=コインを振る人、質問者」

「楽譜=立卦/コインの裏表から卦を導き出したもの」
「演奏者=易者/立卦を読みとく人」

西洋クラシック音楽の楽譜(作品)と演奏家の関係性について書き出すと、話があちらの世界に行くので、ここでは断易(卍易)との共通点について続けます。(きよまつ、音大でピアノを専攻していた過去があります。懐かしい)

楽譜[立卦]を読むとき
演奏者[易者]は
五線譜の平面に書かれ、実際には鳴り響く音楽[卦に現れたメッセージ]を楽器や声のテクニックで表現[わかりやすい言葉に翻訳]します。

演奏者も易者も、楽譜[卦のメッセージ]を読むとき、

個人の主観を交えず、透明な存在となるべし。

このことは、クラシック音楽の世界で、論点を細かくすれば議論は多々あるにせよ、真摯にたずさわる誰もが一度ならずぶつかる壁のような、永遠の課題です。
易者としての きよまつ の立ち位置は「卦」を読むとき、質問に対する自分の主観や予断をまじえず、目の前の卦のメッセージを読むこと。

たとえば、質問や相談について、きよまつ個人が賛成や反対、ある種の感情が沸き起こるとき、
「私はこう思う」「いいんじゃない」「それは心配」と伝えるのは、日常会話での普通です。

易者としての きよまつ は、個人の主観ではなく、卦からのメッセージを伝えることがミッションです。
卦からのメッセージと、個人の主観の境界線について、常に意識的であること。
いつも毎回、クッキリ線を引けるとは限らないけど、意識的か否かで、
伝える言葉一つ一つが変わってくると感じます。

そもそも、卍易(断易)では、卦から読みとるメッセージが、読み手によって真反対になることはありません[正しい設定で正しく読めていれば]。
それは、楽譜で「ド」と書かれているものは、だれが読んでも「ド」で「レ」になることはないのと同じぐらいの精度なのです。

でも、細かなグラデーションや表現の幅は、読み手によって必ずあります。

「透明な存在」を意識しても、にじみでる個性や特質

それは、ベートーヴェンの楽譜を読んで演奏するピアニストが、どんなに楽譜に忠実に[透明な存在の楽譜の再現者として]ベートーヴェンの意図をくんで表現したとしても、100人いれば100通りの演奏があることに通じるのです。

楽譜を読みテクニックを磨き、伝えたいことが伝わるよう表現できているのか、徹底的に検証しながら音楽を磨くクラシックの演奏家と、漢字ばかりの卦に現れたメッセージを読み取り翻訳して伝える易者。
西洋クラシックの楽譜と東洋の易(卦)、演奏者と易者、二者を並べてその関係性を考えると楽しくて血が騒ぐ、オタク気質を否定はしません。。。

東洋の世界観や易占の歴史や系譜についての書籍や研究論文を読むのは趣味の一つなので、そのうち記事にも書きます(と宣言しておく!)。




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