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詩と小説とエッセイのあいだ、霧

 自分が得意なのは、詩でもなく、エッセイでもなく、小説でもない、日常が婉曲された妄想を垂れ流すことなのだと思う。
 周囲の人たちとの交流や、見聞きしたもの、あるいは日々の生活。それらを少しだけ飛び出したもの。そういうものが得意だし、好きだ。

 例えば、霧が好きだ。それはその場にいる人間たち、あるいは無機物たち動植物達を包み込んで、ぼかし、境界を曖昧にしていく。それはとても自分にとって安心する想像だ。なぜ、そんな想像が、私の心を軽くするのだろう、と思う。単純に言って、霧が街を包んだからと言って、物事の境界がなくなるわけではない。物理的に、視覚的にそう見えるだけにすぎない。頭ではわかっているが、もし霧が発生することでその時ばかりは他者との境界がなくなってしまえれば……という意味のない仮定は、私をワクワクさせる。

 そういった、日常の延長である想像や妄想や、もしくは社会不適合的な邪念の産物が自分の頭の中にとらわれるのが少しもったいない、と感じて、小説を書こうとしているのかもしれない。

 ただ、そのようなことを書くにあたって、「これは小説なのか?」という疑問が浮かぶ。

 それは、小説ではない。

 かといって、詩でもない。日常の外側にあるのでエッセイでもない気がする。

 否定、否定。
 所在のなさ、所属場所のなさが私を少しだけ、不安にさせる。

 だから、詩と小説とエッセイの垣根を超える、いや、垣根のない、輪郭をぼかす霧の妄想が、私をなぐさめるのだろう。

 ただ、フォーマットの大切さは理解しているつもりだ。だが、包み込むような霧が出た時だけはそんな願いを持って良いだろう。

 霧がみんなを包んでくれますように、と。

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