“上手い”ってなんだろう?

前回「“上手い”ってそんなに重要なのか?」という記事を書いた。

そして、この記事にこんなコメントを頂いた。

でも上手くても個性は無くならないと思いますよ。
鳥山明とか。
個性と上手さが両立してる。

この方の意見はごもっともで、上手さを極めた上に個性も発揮している人はたくさんいる。
この方が挙げている鳥山明は、上手いだけでなく個性的で唯一無二の漫画家だと思う。

ただ僕が言いたかったのは、上手いから個性が無くなると言うよりは
上手さに執着しすぎることで、自分の個性を見失ってしまうのではないか?
と言うことだ。
僕の文章が稚拙で上手く伝わらなかったのだと思う。

でも、この方のコメントをきっかけに“上手い”とはなんだろう?
という疑問が生まれた。
上手い、上手い、と連呼しておきながら、上手いってなんかよくわからなくなってきた。


“上手い”って漠然としている

上手いって何をもって上手いと言えるのか?
絵画なら写実的な絵を描けることが上手いのか?
漫画なら鳥山明のような漫画を描けることが上手いのか?
歌ならAdoのような歌声で歌うことが上手いのか?

絵画に関して言えば
まるで写真のような写実的な絵が上手いとされた時代もあるが、印象派のような絵画が上手いとされた時代もある。
抽象絵画が現れてからは、もはや上手いという概念すら無くなってしまったような気もする。

僕が子供の頃は、同級生から絵が上手いと持て囃された。
僕自身も他の子に比べて上手く描けている自信があった。
しかし、その頃の絵を今の自分が見返してみると明らかに下手だ。
かつて僕の絵を持て囃した同級生たちも現在この絵を見たら下手だと思うだろう。
これはみんな目が肥えたからではないだろうか。

絵にしろ歌にしろ下手な人は上手いと感じるものが多い。
相対的に自分より上手い人が多いからだ。
逆に上手い人からすれば相対的に下手なものが多くなる。
人によって上手いの基準がバラバラだということだ。

なんだか“上手い”ってフワフワしている。


“上手い”は多様

江戸時代には浮世絵が流行した。
江戸の人々にとっては親しみのあるアートだったようだ。
そんな浮世絵が海外でも評価され、モネやゴッホなどの印象派の画家に多大な影響を与える。
そして、現代の日本では浮世絵を有り難がって美術館で鑑賞したりする。

江戸の人々、印象派の画家、現代の日本人
それぞれが浮世絵を上手いと思っているだろうが、その上手いの感じ方はそれぞれ違うと思う。
文化や時代の違いによって作品に対する着眼点や評価の基準が違って当たり前である。

人によっても価値観が違うので上手く感じるものも違ってくる。
浮世絵を上手いと思う人もいれば下手だと思う人もいるだろう。
「ドラゴンボール」のようなデフォルメしたイラストを上手いと思う人がいれば、「北斗の拳」のような劇画が上手いと思う人もいる。

アニメの美少女イラストが上手いと思う人も多いだろうが、美少女イラストって時代によって全然違う。
かつては可愛いと思われていた美少女が
今だと、古くさい、ダサい、ひどい時では気持ち悪いとさえ思えてしまう。
上手い美少女イラストを描こうと思えば、今の流行に合わせなければならない。


薄っぺらい上手さ

上手さにも色々あるが、薄っぺらい上手さもあると思う。
表面的には上手く感じるが、実は中身がない空っぽな上手さ。
SNSに蔓延るイラストは総じてこれじゃないかと思ってる。
AI生成で作られたイラストもこれだ。

簡単に言えばオリジナリティがない。
上手く描ける技法や上手く描けるソフトがあれば、それなりに上手い絵を描くことができる。
上手いイラストを見本に絵を描けば上手いイラストは完成する。

厄介なのは、SNSのような場所ではそんなイラストであっても大絶賛してくれるところ。
いいね!を稼げるので満足度も高い。
例えば「ドラゴンボール」の悟空のイラストを再現して描けば、みんなが上手いと持て囃してくれる。
そのイラストが元ネタに近ければ近いほど、より評価が高い。

でも、それって
そのイラストを描いた人が上手いのではなく、鳥山明が上手いのでは…

薄っぺらい上手さは、案外簡単に手に入る。


デッサンと模写

絵を上達させるには上手い人の絵をたくさん模写するのがいい。
なんてことを言う人がよくいる。
だが、僕は模写ばかりするのはあまり推奨しない。
もちろん模写することで学べることはたくさんある。
しかし、模写ばかりだと薄っぺらい上手さになってしまう。
模写により能力は向上するが、それはコピーする能力が向上したにすぎない。
模写はどこまで行っても二次元のものを二次元に写すだけだ。

美少女イラストを描くのが得意な人が、デッサンをすると途端にガタガタになってしまうことがよくある。
これは二次元のものを二次元に写す練習しかしてこなかったからだ。
これは写真を元に絵を描く人にもよくある。
精密な背景を描く漫画アシスタントがデッサンは全然ダメ
なんてこともあるだろう。

デッサンで一番大切なのは、描くことよりも理解することだと思っている。
リンゴを1つ描くにしても
リンゴの固さ、重さ、肌触りなどを確認しながら描く。
時には角度を変えてリンゴを色んな方向から観てみる。
時間によって光の当たり具合が変化するのでそれを観察する。
そうすることでリンゴについて理解が深まる。

リンゴの絵を描くだけなら
実物を観て描こうが、写真を見て描こうが完成した絵にはさほど違いはないだろう。
しかし長い目で見れば、理解して描いているかどうかが大きな差になってくる。

デッサンは
ただ絵を上手くするためだけのものでなく、物事の本質を見抜く力も養ってくれる。

伊藤若冲の鶏の絵が素晴らしいのは、彼がひたすら鶏と向き合い本質を見抜こうとしたからだ。
彼の絵はただ綺麗な絵だから魅力的というわけではない。


真の上手さ

“上手い”について考えて思ったのが
僕が前回の記事で否定したのは薄っぺらい上手さだったのかもしれない。

鳥山明の作品が魅力的なのは
表面的な薄っぺらい上手さを追い求めずに、真の上手さを求めて自分と向き合っていたからではないのだろうか。
真の上手さを求めるが故に、唯一無二の個性を磨き上げることができたのではないかと思う。

真の上手さとは自分の中にあるんじゃないだろうか。
誰かと比べたものでもなく、世間の評価でもなく
自分が求める“何か”なのかもしれない。
そこにあるのが個性なのか。

前回の記事でアンリ・ルソーが下手くそだと言ったが、恐らくアンリ・ルソー自身は自分が下手くそな画家なんて微塵も思っていなかっただろう。
彼は自分が思う上手い絵を目指して絵を描き続けていたはずだ。
だから彼の絵は魅力的に輝いているのかも。

前は上手さを追い求めると個性がなくなるのでは?
という結論に至ったが
深く考えてみると
魅力的な個性を磨くには、真の上手さに向き合う必要があるのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?