“上手い”ってそんなに重要なのか?

僕が子供の頃は絵が上手いと誉められる事が多かった。
だから絵を描くことが好きになり、それが自信になり、さらに絵が上手くなりたいと思うようになった。
美術を学べる大学に進学しそこで鍛練を積み、他の人よりは絵の上手い人間になることができたと思う。
しかし、だからこそ疑問が生まれた。
大学で自分よりはるかに絵が上手い人たちに出会い、軒並みそんな人たちが絵とは全く関係ない人生を送っているのを目の当たりにして思う。
絵が上手いってなんか意味があるのか?


“上手い”ってなんだ

世の中、上手いってことがとても評価される。
絵だけでなくピアノ、歌、ダンス、スポーツ、ゲーム
どんなものであれ、上手いということは普通よりも優れているということだ。
だから、みんな普通以上の存在になるために上手いを追い求める。
僕も大学時代は絵を上手くなるためにひたすら練習したものだ。

絵の上手さというものは、如何に写実的に描くかや美しい色彩で描くかなど。
それを極めるためにデッサンや写生などを行う。
完成した作品を先生に見てもらい、指摘された部分を修正する。
絵を描くにあたり変な癖なんかがあればそれは矯正される。
上手くなればなるほど写真のような絵を描くことができるようになる。

当時は大学での絵の鍛練を、当然のことだし絶対に必要なことだと全く疑問にも思わず日々繰り返していた。
しかし、今思えばこの鍛練は正しかったのかと疑問に思う。
絵が上手くなり写真のような絵を描けるようになったとして、じゃあそれって写真でよくないか?
どんなに鍛練しても人間は写真以上に写真のような絵を描くことはできない。
良くて写真と同等だ。


“上手い”とは個性を失うことでは?

世の中の人間の顔を平均化せるとイケメンや美女になるらしい。
どうやら、人間というものは平均的なものに美を感じるようだ。
僕が大学で学んだ美術もそれに似ている。
個人的な癖は醜く、それを取り払った平均的な絵が美しいとされる。

かつて僕が描いたカボチャの静物画を先生に見せた時、自分のフィルターを通して描かれているからダメだと言われた。
見たものを見たままに描けということで、僕にはそれができていなかったようだ。
自分の癖が出ていたということだと思う。

現在、ネットでは様々な人が描いたイラストを見れる。
SNSなどでは多くの人たちが自分のイラストを発表している。
正直言うと、僕はそういうイラストを見たときにあまり魅力を感じない。
ネットで目にするイラストはほとんどが無個性に思えるからだ。

ネット上のイラストのほとんどはイラスト作成ソフトで描かれている。
こういうソフトは便利な機能が満載で、上手い絵を描くにはうってつけだ。
綺麗なグラデーションを簡単に描けるし、ブレのない綺麗な線も簡単に描ける。
ソフトを使いこなせれば使いこなせるほどより綺麗な絵を描ける。
しかし、そんな機能を使えば使うほど個人の個性が消えていく。

今まではデフォルメされた漫画やキャラクターなどのイラストは人間にしか描けなかったが、今や生成AIの登場でそれが揺るがされた。
結局、どんなに上手いイラストを描けようが、人間は生成AI以上に上手い絵を描くことができない。
良くて生成AIと同等だ。


“下手”は魅力

19世紀後半に印象派という美術が生まれた。
印象派で有名なのはクロード・モネ、ポール・セザンヌ、ピエール=オーギュスト・ルノワールなど。
この印象派の画家たちはそれまでの上手い絵に反旗を翻した。
当時思われていた上手い絵のルールを無視し、彼らは自由に絵を描いたのだ。
もちろん初めは下手な絵だと揶揄され全く評価されなかったが、いつしか彼らの個性はそんな声をねじ伏せた。

そして、そんな印象派の画家たちからもいまいち評価されなかったのがフィンセント・ファン・ゴッホだ。
彼は生涯、全く評価されず生きている間には1枚しか絵が売れなかったそうだ。
正直、彼の絵は上手くない。
美しいどころか気持ち悪い絵さえある。
しかし彼の絵はとても魅力的だ。
だからこそ彼の「ひまわり」は死後に58億円の値が付いた。

画家の中でも最も有名なパブロ・ピカソは、上手い絵を描いていた頃はさほど評価されていない。
普通に上手い絵を描いているだけだと評価されないと思ったピカソは、キュビズムを生み出す。
もちろん彼の絵は賛否両論…
と言うかほとんど否だったが、だからこそ人々に衝撃を与えた。
あえて下手な絵を描くことで、ピカソは世界一有名な画家となった。

そんなピカソが一目を置いていたアンリ・ルソーはめちゃくちゃ絵が下手くそだ。
素人が見ても一目瞭然で下手だとわかる絵しかないが、彼の絵は唯一無二。
この世にはアンリ・ルソーの絵画以上の絵がなければ、それ以下の絵もない。
ルソーの絵はルソーの絵だけなのだ。

日本の芸術家、岡本太郎が残した言葉にこういうものがある。
「今日の芸術は、
うまくあってはいけない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。」


今も同じ

生きていると上手さというものがとても重要視される。
上手さを極めると、その世界の頂点に立てると教え込まれてきた。
しかし、実際はそんな上手さは幻想に過ぎない。

僕はかつて女性アイドルが好きだったが、彼女たちの魅力は上手さではないと思っている。
彼女たちが音楽番組なんかに出ると、歌やダンスが下手だとよく揶揄される。
でも、アイドルの魅力はそんな歪さにある。
その歪さこそがアイドルの面白さだ。

漫画「進撃の巨人」の絵はあまり上手くないが、あの絵だからこそあの物語が成り立っているように思える。
もし量産型の今時の綺麗な絵柄だったとしたら、この漫画の魅力は半減していただろう。

B級映画は予算が少なくクオリティが低く拙さも目立つ。
しかし、この中には
作り手の思い、やりたいこと、好きなものが存分に詰め込まれている。
僕はB級映画だからこその勢いがとても好きだ。

もちろん上手いものがダメというわけではなく、上手いものが評価され人々に愛されるというのは事実だ。
しかし、歪で拙く下手なものが評価される一方で、上手さを極めたものが淘汰されているというのも事実である。


上手くない方がいい

上手くありたいという気持ちは、評価されたい成功したいという気持ちに繋がる。
でも、これって本末転倒ではないか?

僕は絵を描き始めた幼い頃、恐らく上手い絵を描こうとは思っていなかった。
ただ描きたいから描いていたはずだ。
それが大人に上手いと評価されることで僕の気持ちは歪んだ。
評価されなきゃならない。
上手くならなきゃならない。
成功しなくてはならない。
と。

本来はただやりたいからやっていただけだ。
だから楽しかった。
しかし、上手くなりたいと思うようになってからは楽しいだけではなくなった。
時には辛いと思うこともあったほどだ。

描くにしろ、歌うにしろ、踊るにしろ
好きだからやる。
で、いいと思う。
上手くなろうとすれば個性が消える。

重要なのは上手くなることよりも、やりたいという気持ちではないか?
そうすることで自分自身と向き合え、自分自身を表現し、自分自身の個性が磨かれる。
唯一無二の存在になれる。
何よりも、そうしている方が楽しい。

そうやって磨かれた個性が、時には世界を揺るがすこともあるかもしれない。

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