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わたしの大人の友だち

そういえば今日は父の命日だ。
2周忌らしい。
まだ父のことを書けるところまで気持ちが整っていないので、せっかくだし父の周辺について書きたいと思う。父と共通の友だちについて。

みなさんは子どもの頃、大人の友だちっていましたか?

わたしにはいました。

その人は父の古くからの友人で、仕事仲間。
彼のことは仮にTくんと呼びましょう。
Tくんとは、物心つく頃から家族のように仲良くしていて、わたしは彼のことを「Tくん」、彼はわたしのことを下の名前にちゃんをつけて、「かもちゃん」と呼んでいた。

Tくんは父と同い年だから40歳くらい。

Tくんは特別子ども好きというわけではないけれど、わたしの両親を尊敬していたからわたしのことも大切に扱ってくれた。
けして子ども扱いはしない。
単純に子どもの扱い方がわかっていなかったのかもしれないけれど、わたしは対等に扱われている気がしてTくんと過ごす時間が好きだった。
幼稚園児にさえ幼児語を使いはしなかったし、幼児から小学生へ成長しても彼へのイメージが変わるということもなかった。Tくんはいつも同じ。
穏やかでやさしくて、汚い言葉を使わない。だれに対しても丁寧で、いつもニコニコしていた。

子どものわたしから見ても彼はやさしすぎるくらいの人で、ほかの大人たちの前で言葉を飲み込んだような表情をした彼を見かけたことが何度かあった。
幼いわたしは、「どうしたの」と声をかけることはできなかったけれど、心配そうにTくんの顔をのぞくと、彼は“気にしなくていいよ”と言いたげに笑っていた。
のんびり屋さんで朗らかな人。時に言葉を飲み込む人。それがTくんのイメージだった。


今の時代では考えられないことかもしれないが、20年ほど前までは分煙の意識などなく、子どもの前だろうが大人は気にせず喫煙していた。
それに関してはTくんも同じで、わたしの前でも気にすることなく煙草を吸っていた。
当時、小学4年生のわたしは父の仕事場によく遊びに行っていたから、仕事の合間に煙草を吸うTくんとよく話をしていた。
Tくんは話のレベルを子どもに合わせて話すこともしなかった。具体的に何を話したかまでは思い出せないが、それでも子どもから爆笑を引きだすくらいおもしろい話をたくさんしてくれた。

煙草の煙がふわふわと漂っている。
Tくんが口をすぼめてドーナツの形をした煙をつくった。ぷかぷかぷか。
煙草の煙でつくられたドーナツ。
わたしはそれを見るのが好きで、何度もドーナツをつくってとお願いしていた。

わたしは煙草が苦手なのに、煙草を吸っている男の人に魅力を感じてしまうのは、Tくんの影響だと思う。
ただ勘違いしてもらいたくないので言っておくと、父と同い年のTくんに対して異性に対するような愛情や憧れはもってなくて、人としての好意を持っていた。いわゆる人間愛。
とにかくわたしは、子どもを大人と平等に扱い、人と対等に接することができるTくんが人として大好きだった。
Tくんはわたしにとって唯一の大人の友だちといえる存在だったのだ。


私が小学5年生の時、父とTくんの会社は事業がうまくいかなくなり、Tくんは失職し、転職を余儀なくされた。
凄まじい勢いで身の回りで変化が起きていた。
Tくんはどうなるんだろう、どうするんだろう。
子どもながらに頭の片隅でそのことを考えていた。

Tくんと会わなくなって2カ月が経ち、母からTくんについて伝えられた。

「Tくん、死んじゃったって……」

わたしはその言葉が信じられなかった。
死んだ? あのTくんが?
Tくんの朗らかなニコニコした笑顔が浮かぶ。死とは対極のような人なのに、どうして。

死因は自殺だった。

わたしはこれまで過ごしてきたTくんのイメージと自殺という事実があまりにも結びつかなかった。
ただTくんが死んでしまったことだけがたしかで、それ以外にわかることは何もなかった。
失職することって自殺するほどのことなんだろうか。子どもの自分には何もわからなかった。
ただいつも笑顔のTくんが一人で悩み、苦しみ、自殺を選んだということだけがわかった。

わたしの子ども時代の大きな出来事だった。
わたしのなかで思い悩んだら人はだれでも自殺するということがインプットされた。

Tくんが自殺したと聞いて数日間はずっと泣いていた。わけがわからなかったけれど、もう二度とTくんと会えないという現実が悲しくてしょうがなかったから。

その日、泣きながらねむると夢にはTくんが現れた。
わたしは夢をよく見る子どもで、大人になるまで悪夢に悩まされていたのだけれど、その日も悪夢を見ていた。
わたしの定番の悪夢で、3つの通りがでてくる。そのうちの真ん中の通りを通ると、絶対に死んでしまうというものだった。
わたしはその道を避けられなくていつも死んでしまうのだ。
だけどその日は、Tくんが現れてこう言った。

「かもちゃん、だめだよ。そっちの道に行っちゃ。かもちゃんはこっちの道に行きな」

Tくんはわたしの手を引いて、死の道ではなく、正しい道へと見送ってくれた。

「おれはもう行くね」

そう言ったTくんがどの道に行ったのかは確認できていない。

あれは夢枕に立つという現象だったのだろうか。スピリチュアルなことはわからないが、Tくんは別れの挨拶をしにきてくれたのだと思った。

あの日以来、この夢を見ることはなくなった。

Tくんから「かもちゃんはまだ死んじゃだめだよ」と言われた気がした。
声をかけてくれたTくんはいつものTくんで会えたことがうれしかった。変わらないあの笑顔だった。

起きてから涙が枯れるほど泣いたことを覚えている。


葬儀についてだが、Tくんの故郷は東北で遠方のため参列することはできなかった。
11歳の時から今もずっと、お墓をさがしてお参りをしたいと思っている。そこにTくんはいないけれど、Tくんを思って彼の故郷を訪ねることに意味があると思う。


わたしの大事な大人の友だち、Tくんの話でした。

20年くらい前の出来事ですが、絶対に忘れられない記憶です。
人に話したこともないし、こういうところに書いたのも初めて。

この世界にTくんという人がいたということを伝えてみたくなって書いてみた。

父についてもいつか書けるようになったら書こうと思う。



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