象徴的、想像的、現実的父について

以下の記事はDylan Evans著『An introductory dictionary of lacanian psychoanalysis』の父(father)の項における象徴的父、想像的父、現実的父についての説明の翻訳である。

注意事項

  • […]は訳者による補いである

  • (…)は原文にそのままついていた、あるいは訳者が原語を表示するために用いる

  • 引用のEはエクリを、Sはセミネールを表すが、Eは1977年の英語版の選集のエクリを表し、S4とS17はミレールが編集した仏語版を表し、S1とS7は英訳版を表している。

  • 翻訳で変なところがあればご教授ください



象徴的父

 象徴的父は現実の存在ではなく、位置であり、機能である。それゆえ象徴的父は”父性機能”という語と同義的である。この[父性]機能はエディプスコンプレクスにおいて法を押し付け、欲望を規制することに他ならず、また母と子の間の双数=決闘的関係に介入し、必要な象徴的距離を母と子の間に導入する。(S4, 161)「父の機能は…根本的には法と欲望を統合することです。(そして法と欲望を対立させることではありません。)」(E, 321[主体の転覆])しかし象徴的父はアクチュアルな主体ではなく、象徴的秩序における位置である。それでも主体は、父性機能を行使することによって、この位置を占めるに至り得るのである。誰もこの位置を完全に占めることはできない。(S4, 205, 210, 219)しかし、象徴的父は通常は誰かにこの機能を受肉することによって介入することはなく、[誰かに父性機能を受肉することによって介入を果たすことはないということ?]ヴェールに覆われた形式で―例えば母の露見[具体的に何を指すのか不明]によって媒介された形で―介入を果たすのである。(S4, 276)
  象徴的父は象徴的秩序の構造において根本的な要素である。文化の象徴的秩序と自然の創造的秩序を区別するものは、男系の血筋を刻みこむということである(inscription of a line of male descendence)。子孫たちを世代の列のうちへと構造化し、父系制は秩序を導入する。「父系制が導入する秩序の構造は、自然の秩序とは異なったものである。」(S3, 320)象徴的父は死んだ父である。原初の群れの父は彼の息子たちによって殺害された。(see Freud 1912-13)象徴的父はまた父の名としても言及される。(S1, 259)
 前エディプス的創造的三角形における第三項としての想像的ファルスの現前は、象徴的父が前エディプス的段階ですでに機能していることを示唆している。象徴的母の背後には常に象徴的父が存在するのである。精神病についてはしかしながら、ここまで到達することはない。そうではあるが、精神病的構造の本質を特徴づけるのは、象徴的父の欠如である。(排除の項を参照のこと)

想像的父

想像的父はイマーゴである。つまり想像的父は主体が父の像をめぐる幻想の中で作り上げた全ての想像的構築物の混合体である。この想像的構築はしばしば、現実の父と同様な(?)父との関係を生じさせる。(S4, 220)想像的父は理想的父として解釈することができる。(S1, 156; E, 321[主体の転覆])または反対に、「子供をブン殴る父」として解釈することができる。(S7, 308)[想像的父の]前者の見掛けにおいては、想像的父は宗教における神-像(God-figures)の原型であり、全能的な守護者である。[想像的父の]後者の機能においては、想像的父は原初の群れにおける、息子たちに近親相姦のタブーを課す恐るべき父であり(see Freud 1912-13)、剥奪の行為者である。[剥奪の行為者としての父とは]娘が彼女から象徴的ファルス、あるいはその等価物、つまり子供を奪ったと責めるところの父である。(S4, 98; see Figure 7 and S7, 307)どちらの見掛けにおいても、しかしながら、理想的父としてせよ、剥奪の残酷な行為者としてにせよ、想像的父は全能的とみなされる。(S4, 275-6)精神病と倒錯は異なった仕方で、象徴的父を想像的父へと縮減させることを引き起こす。


Figure7 (ここではstaferlaから同様の図を拝借してきた。)
図の出典:http://staferla.free.fr/S4/S4%20LA%20RELATION.pdf

現実的父

 想像的父や象徴的父についてラカンは非常に明確に定義しているが、彼の現実的父についての発言は非常に曖昧である。(例えばS4, 220を参照のこと)ラカンの唯一の明確な定式化は次のようである。[即ち、]現実的父は去勢の行為者である、つまり象徴的去勢を実行する者である。(S17, 149, Figure7, S7, 307)これは別としても、このフレーズが何を意味するのかについて、ラカンはわずかに他の手がかりを与えている。1960年に、彼は現実的父を母を”実効的に占有する”者、"Great Fucker"(S7, 307)として説明した。そして1970年には現実的父は精子であるとまで述べた。しかし彼は直ちにこの主張を、誰も自分のことを精子の息子であると考えたことは決してないという発言によって条件づけた[=補強した?]。(S17, 148)これらの発言に基づけば、現実的父は主体の生物学的父であると主張することが可能であるように思われる。しかし、「本当のところ、誰が生物学的父であるのか?」という問いには常にある程度の不確定性が付きまとうので(”pater semper incertus est”[父は常に不確実である],一方で母は"certissima"[最も確実]なのである。;Freud, 1909c: SE IX, 239)、現実的父とは主体の生物学的父といわれている者であるといった方がより適切かもしれない。それゆえ、現実的父はランガージュの効果である。そしてここでは「現実的」という形容詞はこの意味で理解されるべきである。:つまり生物学にとっての現実というよりは、ランガージュにとっての現実である。(S17, 147-8)
  現実的父はエディプスコンプレクスにおいて重要な役割を果たす。エディプスコンプレクスの第三の時において、子供を去勢する者として介入するのはまさに現実的父なのである。(エディプスコンプレクスの項を参照のこと)この介入は子供を先行する不安から救う。この介入なくしては、子供は現実的父の不在の象徴的代理物として、恐怖症の対象を必要とする。去勢の行為者としての現実的父の介入は、単に現実的父の家族内での現前と同じではない。ハンス坊やの症例が示しているように(Freud, 1909b)現実的父は物理的に現前し得るのに加えて、去勢の行為者として介入することに失敗するのである。(S4, 212, 221)反対に、現実的父の介入は父が物理的に存在していなくとも子供には感得され得るのである。


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