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後もう少し【短編】

「失ったものを取り戻しに来たよ」
誰かの声が頭に響いて一瞬で消えてしまった。
何も考えられなくなっていた。
声も、感情も失ってしまったような絶望すらない状態で。
誰の声だったんだろう。
失ってしまったもの、それが何なのか分からなった。

そんなに単純なものでもないだろう。
いや、単純なものなのかもしれない。
失ったものが己の感情だったのならそれを誰かが取り戻しに来たのかもしれない。
「花は枯れてしまったね」
視界に広がる色は白黒で、そこに唯一広がった赤い色が枯れてしまったのかもしれない。

今、どこに立っているのか。
それも分からず枯れた花だけを見ている。
「ここは、どこだろう」
特に疑問もなく声をかけてみた。
誰なのかもわからない。
それでも誰でも良かったのかもしれない。
ただ、己の話を聞いてくれる人なら。

声は返ってこなかった。
代わりにそよ風が、薄い水色が吹き去った。
徐々にそれは淡い橙色に変わる。
春一番、なんて大昔に聞いて今の今まで覚えていなかったな。
顔に当たる透明の雨音。
優しい春の匂い。太陽の香り。
うっすらと見える色彩に、「失ったもの」を取り戻していく。
掌に落ちた小さな桃色の花が笑っているようにも見えた。

やがて気付くのは、声の主が自分自身だったということ。
消えかけてしまっていた景色を、色を、取り戻して欲しかったんだという事。

「見えたよ。綺麗な花だね」
春の香りが、通り過ぎる。
もうすぐ新緑の季節。
囚われていた季節から抜け出すまで、後もう少し。
後、ほんの、もう少し。


後もう少し
(視線の先に広がっていく色彩がまるでキャンバスに絵を描くような、
そんな美しい世界を描くのがきっと自分なんだ)
2024-06-30


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