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短編小説:「空に近い場所」

 こんなに長い時間車に乗るのは久しぶりだ。家を出てから4時間以上が経っていた。カーブ続きの道は車酔いしそうで、開いていた塾のテキストをしぶしぶ閉じる。
「あとどれくらいかかるん?」
「20分くらいしたら着くよ。おばあちゃん、楽しみに待ちゆうって。」
「うん。」
聞き飽きた音楽に耳を傾ける気にならなくて、ぼんやりと窓の外を眺める。ずっと同じ景色だ。どこを見ても、所狭しと木が並んでいる。
おばあちゃんに会うのは3年ぶりだった。手紙や荷物が来るし電話もするけれど、久しぶりに会うから少し緊張していた。小さい頃は喜んで電話に出ていたけれど、最近は気恥ずかしくてお母さんに促されないと話さなくなっていた。おばあちゃんとどんなことを話したらいいのか分からなかった。


 修了式の日、お母さんが突然『春休みにおばあちゃんに会いに行こう。』と言い出した。父方のおばあちゃんは家から歩いて10分のところに住んでいるから、改まって提案しなくても会える。ということは。
「おばあちゃんって、衣川(きぬかわ)のおばあちゃん?」
「そうよ。直は来年からもっと忙しくなるんやから、今しか行けへんと思って。」
「でも、春休みは毎日春季講習があるやん。休んだら勉強遅れる。」
「2泊3日やし、直ならすぐ追いつけるやろ。しばらく会いに行ってないし、行くで。」
「でも。」
「おばあちゃんひとりで暮らしてるんやから、たまには様子見に行きたいんよ。電話するだけじゃ分からへんこともあるし。」
 渋い顔をする僕に『もう塾には連絡してるからね。』と言って、お母さんはその話を終わらせた。僕が梃子でも塾を休まないのを分かっていて先手を打ったんだ。そこまでされると行くしかない。僕は抵抗するのを諦めて、夜ご飯までは閉じようとしていたテキストを開いた。


 お客さん用の駐車場はないから、車道の端ギリギリに車を泊める。エンジン音が聞こえたのか、おばあちゃんが坂を下りて出てきた。
「お母さん、久しぶり。元気しゆう?」
「変わらずやりゆうよ。直ちゃん、おおきゅうなったねぇ。」
「うん。」
おばあちゃんは目を細めて、僕を頭からつま先までゆっくりと眺めた。
「衣川は寒いろう。早う入り。」
 お母さんと荷物を下ろす。2泊分の荷物だし車で来たから、いつも旅行をするときみたいにスーツケースでは来なかった。お母さんが学生の頃から使っているというボストンバッグを引っ張り出す。ドアを閉めると、お母さんは鍵をかけずに家の方へ向かった。
 急な坂を上ると、おばあちゃんの家が見えてきた。おばあちゃんが引き戸を開けると猫が飛び出してきて、思わず後ずさりした。
「これこれ、みーちゃん。」
みーちゃんと呼ばれた猫は、おばあちゃんの足に引っ付いてゴロゴロと喉を鳴らしている。白い背中に茶色い模様がある。
「みーちゃん、変わらず可愛いね。」
お母さんが愛おしそうに猫をなでる。動物が苦手なお母さんだが、猫だけは大丈夫らしい。『お父さんがアレルギーじゃなかったら猫を飼いたかった。』とずっと言っているくらいだ。猫は僕の足元にも近づいてきて、くるくると回っている。
「引っ付いたら直ちゃんが歩けんろうがね。」
そう言いながらも、おばあちゃんは猫を抱き上げずそのまま家に入ってしまった。お母さんも後に続く。僕だけ外で立っている訳にもいかなくて、猫に構わず靴を脱いだ。

 僕とお母さんが寝る部屋は、居間の隣にある和室だった。畳の上にボストンバッグを置く。畳まれた布団が2組、部屋の隅に並んでいた。普段はあまり使っていない部屋なのか、少し埃っぽい。長押のすぐ上には大きな写真が4枚並んでいる。3枚はセピア色で、1番左の1枚だけカラーだ。その中に僕の知っている顔がひとつだけ。こげ茶色の額縁の中で、スーツが全然似合っていないおじいちゃんが微笑んでいる。
「いっぱいほしかがあるき、好きに食べや。」
いつの間にか表に出ていたおばあちゃんが、小皿を片手に戻ってきた。お皿の上には、形も厚みもバラバラな干し芋が並んでいる。毎年春になると、家族4人では食べきれないくらい袋いっぱいのほしかが送られてくる。小さいときは好きだったけれど、最近はあまり食べなくなっていた。歯にくっつくのが嫌なんだ。
 3人でテーブルに座って、おばあちゃんが入れてくれたお茶を飲む。おばあちゃん家の味がした。
「久しぶりに由実子が帰ってくるがよって言うたら、みんな会いたいって。10人くらい来るがやないろうか。」
「そんなにいっぱい来てくれるが?張り切って構えないかんねぇ。」
「人が多いときは焼肉よ。野菜切っちょいたら、みんな自分で焼いてくれるきね。」
自然な笑顔で楽しそうに話すお母さんを見るのは久しぶりだ。ママ友と話すときは、少し眉を下げた微妙な顔で笑いながら相槌を打つばかりだから。
「直ちゃんも食べ。」
「うん。」
おばあちゃんが小皿を僕の方に寄せてきた。断る訳にもいかず、1番小さいほしかを取る。芋の甘さは好きだけれど、歯にくっつくのがどうしても苦手なんだ。舌の先で奥歯を触ったりお茶を飲んだりしながら、少しずつ食べ進める。
「直ちゃんはいくつになったがかね?」
「10歳。4月で小学5年生。」
「もうそんなになるかね。早いねぇ。」
おばあちゃんは僕を見て、ぽつりとこう言った。
「直ちゃんは本当に、おじいちゃんにそっくりちや。」


 僕のおじいちゃんは、5年前に天国へ旅立った。山のことをよく知っていて、畑仕事が大好きな人だった。僕はおじいちゃんが大好きだし、おじいちゃんも僕のことが大好きだったと思う。おじいちゃんのお葬式の日のことを、よく覚えている。よく覚えているんだけれど、何だか霞がかったような記憶だ。
 まだ幼稚園生だった僕は、葬儀場に漂ういつもと違う雰囲気と、もう笑わないおじいちゃんが目の前にいることについて『こわい』と感じることしかできなかった。火葬場でおじいちゃんが骨にされるのを待っている間、僕には食べきれない量のお弁当が出された。味はよく分からなかった。多分、美味しくなかった。おばあちゃんが泣いているのを初めて見て不思議な気持ちになったことだけは、はっきりと覚えている。
 大好きなおじいちゃんがもういないと分かるから、衣川に行くのが段々嫌になった。僕の顔はおじいちゃんに似ているらしくて、おばあちゃんや村の人から『直ちゃんは稔さんに似ている。』と言われる度に、おじいちゃんにはもう会えないことを思い出してしまうのも嫌だった。達筆なおじいちゃんが子どもの僕でも読めるような字でわざわざ書いてくれるハガキが届かないことも、電話の向こうから照れくさそうな声が聞こえないことも。小さなことが、今になって悲しいんだ。おじいちゃんがいたら、今の僕を見て何と言うだろう。『直、もっと頑張りや。』と言うだろうか。それとも『そればあで上等じゃ。』と言うだろうか。僕には、分からない。


 離れで焼肉の準備をしていると、村の人が次々と集まってきた。何となく見覚えのある人もいれば、初めて会う人もいる。炭を買いに行っていたまさるおじちゃんが帰って来て、ガシガシと僕の頭を撫でた。くすぐったくて思わず首を竦める。
「直、いっぱい食べよ。鶏も牛もたまるか言うばあ買うて来たき。」
村で3番目に広い茶畑を管理しているまさるおじちゃんは、よく日に焼けたとても体が大きい人だ。小さい頃、肩車をして遊んでくれた。
「タレはおばあちゃんの作った味噌だれがあるき。いっぱい出しちょこうかね。」
棚の中から、赤い蓋のボトルが何本も出てくる。おばあちゃん特製の味噌だれ。柚子が入っていて美味しいんだ。うちの冷蔵庫の中に必ず入っていて、ひとりでご飯を食べるときはこっそり色んなものにかけてみる。
 全員が揃っていなくても、大人がビールを飲み始めると何となく宴会が始まるのが村の文化だ。あちこちから『プシュッ』と気持ちのいい音が聞こえてくる。お母さんは隣にいるけれど、久しぶりに会う人たちと楽しそうに話していて僕の方を見ていない。今日はお父さんがいないし、おばあちゃんも少し遠くに座っている。網にお肉を載せて、焼けるのをぼんやり待っていると声をかけられた。
「ねえねえ、清子さんの孫なが?おれ、和樹!なんて名前?」
目を輝かせて僕の顔を覗き込んできた少年は、ツンツンと立つ黒髪が印象的だった。
「山崎直。」
賑やかなのはあまり好きじゃない。初めて会う人も。
「直くんか。いくつ?」
「10歳。小学4年生。」
「え、小4?おれと一緒やん。」
彼の目の中に光が増した。
「おれと同い年嬉しい。おれ以外、村におらんがって。」
「え、そんなことあるん?」
素直に驚いた。自分と同じ年の子どもが全くいないなんてことがあるのだろうか。衣川は子どもがすごく少ないけれど、1学年に1人しかいないことが本当にあるなんて。
「うん。3年生は5人おるけど、4年生はおれひとり。うわ、めっちゃ嬉しいわ。」
あまりにも素直な彼の様子を見ると、少し斜に構えている自分の態度が馬鹿らしく感じられてきた。

「どんなところに住みゆうが?」
「都会ってどんな感じ?」
「どんなテレビ見る?」
「何が流行っちゅうが?」
ひっきりなしに質問してくる和樹に答えていたから、焼いていたお肉のことを忘れていた。煤だらけになった塊を網から引き上げてお皿の隅に置く。
「直くんは普段何して遊ぶ?」
唯一答えに詰まった質問だった。僕は普段、何をしているんだろう。
「ゲーム…とか。」
「他には?サッカーとかドッジボールとかはせんが?」
「外で遊ぶのは好きじゃない。」
「へぇ。じゃあ、休み時間は何しゆうが?おれはいっつも鬼ごっこするで。お兄ちゃんらにも負けんがやき。」
「休み時間は…、休み時間は本を読んでる。」
『塾の勉強をしている』なんて、ここでは言いたくなかった。本を読むときもあるから、嘘は、ついていない。運動は苦手だから、積極的に外遊びはしないんだ。昼休みに行われるレクのときは、仕方なく運動場に出るけれど。できれば参加したくない。
「おれも、本読むの好き。でも村には大きい図書館も、本屋さんもないがよね。図書室の本は全部読んだき、今2周目。」
今度はぼくが目を輝かせる番だった。同級生たちはボールを追いかけるのに夢中で、本を進んで読む子は僕のクラスにはいない。
「どんな本読むん?」
和樹に初めてした質問だった。
「最近は、『少年歴史探検隊』が好き。江戸時代にタイムスリップする話が1番面白いがよね。」
「あ、僕も読んだことあるで。新しいのは平安時代に行くんよね。」
「待って!ネタバレ禁止!新刊はまだ手に入れてないがやき!」
必死になる和樹を見て、つい笑ってしまった。こんなに楽しく本の話ができる人が、衣川にいるなんて思っていなかった。 

 食べるのも忘れて、夢中になって話した。和樹は僕の話に驚いたり質問を挟んだりしてくれるから、話がどこまでも広がった。いつの間にか外は真っ暗になっていて、離れにいる人が少なくなっていた。
「和樹、帰るで。」
和樹のお母さんらしき人が、小さな女の子を抱っこしてこっちに歩いてくる。
「えぇ、もうちょっとだけ。」
「もう9時で。お風呂入ってないがやき、もう帰らないかん。みどりも寝る時間やし。」
みどりと呼ばれた女の子は、お母さんの胸に顔を押し付けながらぐずっている。途端に不機嫌になる和樹。
「いいやん、今日くらい。あと5分だけ、直と話させて。」
そのやり取りを側で見ていたおばあちゃんによる鶴の一声で、和樹の表情が明るくなった。
「和くん、泊って行きや。明日は土曜日やし、夕方にでもうちに迎えに来てもろうたらえいろう。」
和樹のお母さんは少し考えた後、
「すみません、ありがとうございます。」
と言った。想定外の展開に、僕はついて行けない。突然お泊まりに行くことも、来てもらうことも未経験だ。『それじゃあお願いします。』と言って、和樹のお母さんはあっさり帰ってしまった。
「お風呂入ったら、布団の中で2次会やな。」
水色の軽自動車を見送りながら、和樹がにやりと笑った。


 夜更かしをしようと意気込む人の方が早く寝てしまう、というのはやっぱり定番らしい。テンション高く『これから2次会や。』と意気込んでいた和樹は、布団の中で寝息を立てている。さっきまで話していたのに突然静かになったと思ったら、うつ伏せのまま和樹は眠っていた。『せっかくやし、子ども2人で寝たら?』と、お母さんはおばあちゃんの部屋に行ってしまったからこの部屋には僕と和樹だけ。ひとりにされた途端につまらなくなった。薄暗い中で目を凝らして時計を見る。まだ10時半だ。いつもなら、塾から帰って来て夜ご飯を食べているくらいの時間。こんなに早い時間に眠れるわけがない。
 小さくため息をついて、そっと布団を抜け出した。部屋の隅に大きな本棚がひとつ、ぽつんと置かれている。本棚の前であぐらをかいて色とりどりの背表紙を見上げていると、暗い部屋でもひと際目につく本があった。その本だけ存在感が違う。何だか、本棚から取り出してほしそうに見えた。上から3段目の左端の方。臙脂色の背表紙に金色の刺繍でタイトルが書かれた、少し大きな本だ。つま先立ちになって取り出すと、ずっしりと掌に重みを感じた。タイトルの雰囲気からして、小説みたい。パラパラとめくっていると、ある部分で自然に本が開いた。二つ折りになった紙が挟まっている。紙が出てきたページを開けたまま、本を畳の上に置いた。少し厚みがあるから、画用紙かな。紙を開いた僕は思わず息をのんだ。
 画用紙の中には、まっすぐに生えた木がたくさん並んでいた。木が並んでいるだけなのに、なぜかとても魅力的だ。空は描かれていないけれど、木の上には青く澄んだ空が広がっていることが分かる絵だった。よく見たら、木だけじゃなくて竹も生えている。
 僕には分かる。これを描いたのはおじいちゃんだ。幼稚園の頃、おばあちゃんに連れられて衣川村文化祭に行ったことがある。小学校にある大きな教室で開かれる展示会で、子どもだけじゃなくて村に住む人なら誰でも作品を出すことができる。おじいちゃんは書道の作品だけじゃなくて、絵も描いて出していた。小学校に書道を教えに行くくらい達筆なおじいちゃんだけど、絵を描くのも好きだった。おじいちゃんの描く絵は、まるで自分がそこに立っているように感じられる絵なんだ。やわらかい色を使った、ごちゃごちゃしていない絵。見る人の心をほぐすような絵。おじいちゃんの絵を見た村の人が『稔さんの絵見たら、なんかほっとするわ。』と言っていたのを思い出した。カッターナイフで削られた、先っぽが少しゴツゴツした色鉛筆がおじいちゃんの前に並んでいるのを見るのが、好きだった。
 久しぶりにおじいちゃんのことを思い出して悲しくなった。こういうのを『センチメンタル』っていうのかな。この間、国語の問題で出てきた単語。おじいちゃんのことを忘れたことなんてないけれど、前に比べると思い出すことが減った。これって、時間が経ったからなのかな。それとも、僕が冷たいのかな。思い出すと悲しくなるからできれば思い出したくないけれど、忘れてしまうのも嫌だった。衣川に来ておじいちゃんが居た頃のことを思い出すまで、何となく忘れてしまっていた。この絵は、おじいちゃんを感じられる大切なものだ。もしかしたらおばあちゃんが大事に仕舞っているのかもしれないから、勝手にもらうことはできない。でも、どうしても欲しかった。おじいちゃんを感じられるものは、僕の家にはほとんどないから。
 明日、おばあちゃんに絵のことを聞いてみよう。そう考えて本に画用紙を挟みなおし、元の場所に戻す。部屋は怖いくらい静かで、隙間風が入ってくる音が聞こえる。思ったより長い時間本棚の前に座っていたみたいで、少し足が冷たくなっていた。和樹を起こさないようにそっと布団に戻って、目を閉じた。


 ニワトリの鳴き声で目が覚めた。障子の向こう側がぼんやりと明るい。ゆっくりと顔を動かして隣を見ると、和樹はもう着替えて布団も畳んでいた。やっと起きた、という顔をして僕を覗き込んでくる。
「おはよう。」
「うん…、おはよう。今、何時?」
「7時。」
もう少し寝たいけれど、しぶしぶ起きる。まだ目が開ききっていない僕に対して、和樹は朝から元気いっぱいのようだ。
「今日は何しよう。あ、そうそう。おれ、直を連れて行きたいところがあるがよ。」
「うん。」
「直のお母さんと、清子さんがいいって言ったらやけど。直、絶対楽しいで。」
得意げな表情で、まくしたてる。
「直ちゃん、起きた?」
おばあちゃんが部屋に入ってきた。割烹着を着ているから、朝ごはんを作っているのだろう。
「うん、おはよう。」
「おはよう。もう朝ごはんができるき、着替えて出て来いや。」
おばあちゃんはすぐにリビングに戻っていった。寒すぎて、布団から出るのがつらい。よし、と勢いをつけて布団を蹴とばした。
「おれ、リビングにおるで。向こうの方があったかいき、直もはよ来いや。」

 着替えてリビングに行くと、石油ストーブが焚かれていて暖かかった。
「和くん、直ちゃんと卵取ってきてくれる?」
「はぁい。直、行こう。」
おばあちゃんの言っていることがよく分からなくて、ただ和樹について行く。卵を取りに行くって、どこに行くんだろう。
 和樹が向かったのは、玄関を出てすぐのところにある、ニワトリ小屋だった。小屋と言っても、犬のケージみたいな感じ。金網の中で元気に鳴くニワトリの足元には、小さな卵がころがっていた。
「お、ちょうど4つあるやん。直も取って。」
和樹がケージを開けてくれて、僕が先に卵を取る。バタバタと暴れるニワトリが怖くて、さっと卵を取った。僕の片手に収まるくらい小さな卵。赤茶色の小さな卵は、ほんのり暖かかった。最後に衣川に来たときは鶏がいなかったと思うから、この卵を食べるのは初めてだ。

 家の中に戻って、おばあちゃんに卵を渡す。目玉焼きにしてくれるみたい。ご飯を装ったりお茶を入れたりしているうちに、お母さんが起きてきた。
「おはよう。衣川はやっぱり寒いね。」
「おはよう。よう寝れた?」
「うん。わぁ、衣川鶏の卵やん。」
「さっき和くんと直ちゃんに取ってきてもらったがよ。目玉焼きにするきね。」
おばあちゃんとお母さんが話しているのを聞きながら、お箸をテーブルに並べる。すぐに目玉焼きができて、4人で食卓を囲んだ。
「いただきます。」
トースト、サラダ、目玉焼きとソーセージ。それにお母さんとおばあちゃんはコーヒー、僕と和樹はココア。さっき取ってきたばかりの卵が目玉焼きになっているのが、何だか不思議な感じだ。
「今日はどうするが?」
おばあちゃんがお母さんに聞いている。
「たかちゃんとお昼に会う約束しちゅうがやけど、それ以外は特に予定無いかな。」
「お昼構えちょった方がいい?」
「ううん、杉野食堂で一緒にご飯食べるき大丈夫。」
「直ちゃんはどうする?」
おばあちゃんに聞かれたけれど、特にしたいことはない。和樹がさっき言っていたことを思い出して、和樹の方を見た。僕を連れて行きたいところ、ってどこなんだろう。僕がおばあちゃんに返事をする前に、和樹が口を開いた。
「杉野食堂に行くがやったら、一緒に下りてもいい?直と行きたいところがあるし、杉野まで下りたら僕ひとりで帰れるき。」
「分かった。10時半に出るき、準備しちょってよ。」
お母さんの言葉に和樹は元気に頷いて、ココアをぐっと飲み干した。


 和樹はみーちゃんを追いかけて、どこかに行ってしまった。お母さんは支度をしているから、まだまだ時間がかかりそうだ。おばあちゃんはほしかを食べながらお茶を飲んでいる。今なら、ふたりだけで話せそうだ。昨日の夜見つけたものについて、和樹にもお母さんにも知られたくなかった。
「おばあちゃん。」
「うん?」
リビングでテレビを見ていたおばあちゃんが僕の方を向いた。何も言わずテーブルの上に本を置いて、挟んである画用紙を取り出す。
「これ、おじいちゃんの絵?」
画用紙を手に取ったおばあちゃんは、絵をゆっくりと見た後
「そうやねぇ。これは稔さんが描いたがやね。」
と言った。
「どこで見つけたが?」
眼鏡の奥で細められた目は、僕じゃなくて絵を見つめている。
「昨日の夜、面白そうな本無いかなと思って本棚見とったら、見つけた。」
 おばあちゃんは黙ったまま、絵を見つめている。もしかしたら、これは僕が欲しがったらいけないものだったのかもしれない。でも、どうしても欲しかった。おじいちゃんを感じられるものを、僕の側に置いておきたかった。
「僕、その絵が欲しい。おじいちゃんの描く絵が好き。おじいちゃんのこと忘れたくない。僕にその絵が欲しい。」
話しながら、喉がきゅっと詰まって涙が出そうになった。僕はおじいちゃんのことを忘れたくないんだ。自分の口からその言葉が素直に出たことに驚いた。これまで誰にも言ったことがなかった、心の奥にしまい込んでいた僕の気持ちだった。おばあちゃんはまたしばらく黙ったままだったけれど、ゆっくりと口を開いた。
「直ちゃん、この絵、大事にしてくれる?」
やっとおばあちゃんと目が合った。僕はおばあちゃんの目をしっかり見て、力強く頷いた。
「うん。大事にする。」
「分かった。じゃあ直ちゃんにあげるきね。」
おばあちゃんは画用紙を開いたまま、僕に渡してくれた。
「おばあちゃん、この絵は村のどこかの絵?」
「うん、そうやと思うで。杉野に下りるまでに、杉と竹が混ざって生えちゅうところがあるがよ。よく見たら直ちゃんでも分かると思うで。おじいちゃんは、まっすぐ空に向かって生える杉と竹を見るのが好きやったがやと。」
懐かしそうな表情をして、おばあちゃんが教えてくれた。そうか、これは村の中でおじいちゃんが好きだった景色なんだ。空の上からも、この景色を見ているかもしれない。この絵があれば、おじいちゃんとつながっていられる気がした。


 後部座席に和樹と並んで座る。お昼ご飯を食べて少ししたら、和樹とさよならする予定だった。せっかくだし和樹と話したい気持ちもあるけれど、僕の意識は窓の外に向いていた。おじいちゃんの好きだった景色を、僕も見てみたかった。
 低いエンジン音が聞こえて、車が動き出した。話しかけてくる和樹に不自然にならないくらいの相槌を打ちながら、流れる景色を追う。昨日来たときは全部同じ木に見えていたけれど、よく見ると少しずつ違う。葉っぱの形や色、幹の太さ。面白くて、新鮮な気持ちで窓の外を眺めていた。
 おばあちゃんの家を出て5分くらい経った頃。僕は目を見開いた。画用紙に広がっていた、あの景色だった。絵と同じように、杉と竹が混ざって生えている。こんなに近くにあったんだ。おじいちゃんは毎日、いや、もしかしたら1日に何回もこの景色を見ていたのかもしれない。
 車の中はいつの間にか静かになっていた。和樹も窓の外を見ている。
「和樹。」
「うん?」
和樹が僕の方を向くのを待ってから、和樹の目をまっすぐ見て言った。
「いいところやね、衣川。」
少し目を見開いた後、和樹は歯を見せて笑った。
「そうやろう?おれも、大好き。」


 お昼ご飯を食べた後、友達と話しているお母さんより一足先に食堂を出て、和樹はとっておきの場所に連れて行ってくれた。白い外壁が所々汚れた四角い建物。スロープの横には村の地図が掲げられている。
「今日も開いちゅうと思うがやけど…。」
和樹はスロープを上って、ドアをそっと開けた。
「よかった。入れるわ。」
 得意げな顔で中に入っていく。誰もいないのか、電気がついていないし寒い。本当に入っていいのか不安になりながら、和樹について行く。入ってすぐ右側に木でできた階段があったけれど、そこは上らずに和樹はまっすぐ進んでいく。
「ここ。ここに連れて来たかったがよ。」

 僕の方を振り返った和樹の後ろには、天井まで届く本棚が壁沿いに3つ、僕の胸くらいまでの高さの本棚が2つ、それにたくさんの木製の机と椅子が並んでいた。思わず息をのむ。大きな窓から入ってくる太陽の光が、部屋全体を明るく照らしている。建物に入ったときに薄暗いと感じたのが嘘みたいだ。息を吸うと、胸いっぱいに木の匂いが広がった。床も壁も、木でできている。ぼんやりと温かくて明るい空間だった。
「ここは小さい図書館みたいな感じで、おれは毎週本を借りに来ゆうがよ。絵本もいっぱいあるき、小さいときからずっと来よって。直はここ好きやろうなぁって思って。」
「うん。好き。めっちゃいい。」
 僕の知っている図書館とは全然違う。学校の図書室も市立図書館も、もっと冷たい感じがする。白い壁と白い床で、鈍い銀色をした同じような本棚がたくさん並んでいるだけ。ここは幼稚園くらいの子どもでも手に取りやすいように絵本が置かれているし、木でできた小さい椅子もある。初めて来る僕でも、心地良いと感じられる場所だ。
「いいなぁ。」
「そうやろう。ここを作りたい、って言ったのは稔さんながやって。」
「稔さんって…、え、僕のおじいちゃん?」
「そうそう。村には図書館がないき、大人も子どももゆっくり本を読める場所が作りたいって村長に言って、作ったがやって。稔さんはここで習字教室もたまにしよったらしいで。僕のお姉ちゃんが教えてもらいよったがやって。」
 初めて知ったことだった。おじいちゃんは村役場で働いていたみたいだから、そういうことができたのかもしれない。村の人たちのために、そしてきっと、本を読むのが大好きなおばあちゃんのために。ここを作りたかったんだと思う。おじいちゃんはきっと、村のことが全部全部、大好きだったんだ。
「なんか、いいな。羨ましい。」
「おれ、ここが大好きながよ。おれが大人になったら、もっといっぱい本を増やして、それでここを村の人が今よりもっと使ってくれたらいいなって思いゆう。」
 真剣な表情をした和樹の横顔は、僕よりずっと大人に見えた。窓の外には大きな山が広がっている。村に行くなんて、つまらないと思っていた。塾で勉強して第一志望の中学校に合格することだけが、幸せだと考えていた。和樹を見ていると、そんな自分がちっぽけな存在に感じられた。
「僕も、僕もそんなことがしたい。本を好きな人が集まれる場所が作りたい。」
 和樹みたいに、具体的な夢はないけれど。塾の友達は、医者や弁護士のような立派な職業に就きたいと言っているけれど。それって本当にいいことなのかな。お父さんが医者だから僕も医者になる、家を継ぐんだ、って。本当に自分が幸せになれることなのかな。僕は和樹みたいに、自分のしたいことを追いかけられる人になりたいと思った。中学受験を辞めるつもりはないけれど、和樹やおじいちゃんみたいに周りの人のことを考えられるようになりたい。そう思った。


 ドアを開けると、お母さんがちょうど杉野食堂から出てくるのが見えた。和樹とお別れの時間だ。
「おれ、そろそろ帰るわ。」
「うん。じゃあね。」
「また来る?」
受験が終わるまで、きっと来れないと思う。でも、また来たい。おじいちゃんが大好きだったこの村を、僕もちょっと好きになったから。
「うん。次はいつになるか分からへんけど、来る。絶対、行く。」
「分かった。待ちゆうきね。じゃあな!」
大きく手を振りながら、和樹は団地に続く道へ駆けて行った。
「直、帰るよ。」
遠くなっていく背中が見えなくなる前に、お母さんの方を向く。
「はーい。」
僕の頭の上には、雲1つない青空が広がっていた。


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