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動画は過去と今とを繋ぐツールだと思う


人が1番最初に忘れてしまうのはその人の声なんだよ


誰かに聞いたのか、テレビで見かけたのか、はたまた本で読んだのか。
どこで知った言葉なのか忘れてしまったけれど、この言葉は強烈に私の中に残っている。



私は元々旅行に行っても写真や動画を撮らないタイプだった。


わざわざ写真や動画に残さなくても記憶に残したらいいじゃん、そんな事より目の前のご飯を楽しもうよ〜〜という感じで、LINEのアルバムも写真フォルダの中も誰かが撮ってくれた写真や動画がほとんどを占めている。

(単純に撮るセンスがない、というのもある。)


だからこの言葉を聞いた時はなかなかの衝撃だった。聞いてすぐ、「記憶に残せないのなら記録に残さないと!!」と慌てて方針転換をしたのを覚えている。




最近、方針転換して良かったなあと思う出来事があった。

母親のAndroidの調子が悪くなったのだ。
LINEは9回に1回しか送れないわ、充電は5時間しかもたないわで、いよいよ機種変更しないと、という状況になった。



母が使う機能といえばLINE、電話、google検索、カメラ、あとはカードや給料明細の確認くらいなので、機種変更するにあたって、LINEの引き継ぎ機能をONにするくらいでいいかなと思っていた。



あとは撮りためた写真も、一応バックアップ取っていた方がいいかなと思って聞いてみたけれど

「大した写真はないし、もし無くなったとしても大丈夫〜〜」

とあっけらかんと言われたので、万が一データが消えたとしてもそれはそれでいいかな、なんて思っていた。



目当ての機種も見つけたし、さていよいよ機種変更するかなと思った矢先、母が切羽詰まった様子で私に言ってきた。




「写真はいいけど、あれは絶対無くしたらあかんねん、消えたらあかんやつ」




最近何かと「あれ」を連呼する母の「あれ」を理解するのに少し時間はかかったものの、それが「母の両親(=私の祖父母)が会話している動画」だと知った時にめちゃくちゃ納得した。




その動画は4年前、祖父が亡くなる2ヶ月前に病室で撮ったものだ。

祖父は入院する1.2年ほど前に初期の前立腺がんと診断された。
けれど高齢のため手術はできず、通院と服薬のみで経過観察をしましょうということになっていた。

ただ幸いにも、診断された後もほとんど自覚症状がなかったので普段と変わらない生活を送ることができていた。


そんなある日、自力で起き上がることができなくなった。本人いわく「朝起きたら身体に力が入らなくなった」という。慌てて病院に駆け込んだものの、すぐに命に関わるものではないと言われてほっとした記憶がある。

ただ家での介護は難しいことと、初期ではあれ癌を患っていたこともあってそのまま入院しましょうか、となった。



入院してからの祖父は介助なしで何かをすることは難しくなっていたけれど、衰えない食欲と、長年の農作業・畜産業で培った体力もあって、家にいるのと変わらないくらい元気でいた。食後のデザートのハーゲンダッツもぺろりと完食していた。


祖母からの近況報告を聞きながら、「なんだ元気じゃんよかったー」と思っていたけれど、そんな状況が痴呆の症状が出始めてからガラリと変わった。



階段を転げ落ちるように
あっという間に祖父に元気がなくなっていった。口数も減りぼーっとすることが増え、お見舞いに行っても認識してもらえないことが段々と増えていった。祖母や母が話しかけても上の空で、会話ができない日々が続く。


「今日もダメだったね」


そんな日が当たり前になっていく中で、祖父が隣にいる祖母にぽつりぽつりと何かを話してくれた時があった。自分から言葉を発すること自体久しぶりだったので、それを見た瞬間とっさにスマホを手にとりその様子を動画におさめていた。

後から動画を見返してみると、実際にはうまく会話にはなっていなかったけれど、祖母に向かってあれやこれやと喋る祖父に「今なんて?」と言いながらも相槌を打つ祖母のなんてことない動画。


なんとなくこれが最後の会話になるんじゃないかなと思いながら撮っていたのだけど、案の定これが2人が話す最後になった。

そして祖父が亡くなってちょうど3ヶ月後、その後を追うようにして祖母も亡くなった。




久々にその時の動画を再生して、祖父母の声が蘇る。懐かしさと同時に、祖父母との思い出のエピソードが再生されて、なんだか心があったかくなった。

いないのに、いるような、ちょっとだけタイムスリップした感覚。

時間が経って改めて、あの時撮っていて良かったなあと思っている。





動画の話でもう1つ。

ツイッターのタイムラインに流れてきて感動した記事を共有したい。
(埋め込みがうまくいかなくて落ち込んだけどぜひ読んでほしい・・・!)

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この胸にぐっっと迫る文章を小学1年生の子が書けるということに驚きだし、お父さんの気持ちも、その気持ちを受け取ったこうきくんの優しさにもじーんとしたのだけど、私はこの時のお父さんの動画が残っていることにすごく感動して。


お父さんがこの言葉を伝えた時、こうきくんは当時2歳。本人も書いているように、お父さんから言われた事を覚えていない。

けれど時を超えて小学1年生になったこうきくんは、動画越しにお父さんからの言葉を聞くことができていて、

どんな顔で、どんな声で、どんな言葉で語りかけているかを、その耳で聞くことができている。



「お父さんがこんなことを言ってたよ」と伝えるには限界があることを、代わりに伝えてくれる動画。

改めて考えると、ものすごいツールではないだろうか。

***

動画とは「その瞬間の熱気や感動を思い出として残すツール」であるのは間違いない。私も、そう思ってきた。

けれど同時に、大切な人や忘れたくない思い出と今の自分とを繋いでくれる、タイムマシンのようなツールでもあるように思う。

そう思うと、これから起こる何気ない1コマも大切に撮りためていきたいなあと思うのだ。




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