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わたしは来世羊になる。その次の次、くらいで水になれたら。

 解脱、やっぱりあるのかもしれない。
 以前友人が言ってた「砂になりたい」ひいては「無機物になりたい」。はじまりも終わりもない存在として、輪廻から抜け出すことすなわち解脱だと思った。

輪廻をあえて線としよう

 わたしは来世羊になりたくて、それ以外でもとにかくヒト以外の動物になりたかった。無機物になるという発想自体がなくて、当然その動物生が終わると次の輪廻に行くものと。
 この「発想自体がなかった」というのが重要で、わたしはまだその域に立つことが許されていなかったのだと思う。つまり「人間としてのレベルが違う」。
 こういう表現をすると来世も命あるものになりたい層が劣っているという印象になってしまいそうだけど、そうではない。
 もしも本当に解脱というものがあるとして(弥勒菩薩でさえ到達していない領域だから本当に想像です)輪廻という循環をあえて真っ直ぐな線とした時に、解脱をゴールの部分に置く。その途中過程に前世や前々世、今世、来世、来来世…生と死が点として存在する。その途方もなく長い直線の中、わたしたちはそれぞれ様々な位置に立っている。無機物になりたい人たちはゴールにほど近いところにいるのではないだろうか。

 よく、「人生何回め?」と思うほど思考が深かったり、何事に対しても視野が広かったり懐が広い人がいる。本当に前世というものがあるとすれば、おそらくだが、本当に何回か人間を経ている。そしてまだわたしには見えていないものを見てそれが本人の今世にも反映されているのだろう。そういう人たちが来世を聞かれて生や死という概念のない、命あるもの以外を答えるとしたら、それは叶うのではないだろうか。だって彼ら彼女らはゴールにほど近いところにいる。

 反対に「なぜそんなにも…」というほど他人を傷つけることに躊躇がなかったり、驚くほど何もかもを他人のせいにしたり、程度ややり方は違えど他害・他責的な人間もいる。
 わたしにも思い当たる人間がいて、休職にまで追い込まれて今でも会うたびに嫌な思いをするしすれ違う度にする挨拶は知り合って四年で一度しか返ってきたことがない。同じ四年に一度でも開催されれば半月ほど続くオリンピックの方が頻度が高いと言えるだろう。(聞こえていないわけではない。なぜならわたしを攻撃するテンションの時は挨拶より小さい声でもきちんと拾ってくる)そういう嫌な人間、それを嫌と思う自分が嫌だった。許せない、流せない自分が矮小な存在に感じていた。
 でも前述の考えに至った時気付いた。彼ら彼女らはおそらく直線上のわたしより後ろにいるのだ。だからまだ気付いていないのだろう、人を傷付けてはいけないということに。

無知は悪ではない、けれど

 知らない、分からないことは悪いことではない。無機物になる発想がないことが悪いことではないように。まだ見えていないことが分からないのは当然なのだ。
 どこの世界に赤ちゃんがトイレで排泄できないことを怒る人がいるだろう。就学前の子どもが文字の読み書きができれば褒める大人が多いだろう。わたしたち大人は子どもに世界のさまざまなことを教えながら育てようとしている(むしろ教わることの方が多いけれど)。
 同じように教えればいいだけのことだったのだ。そして学んでいけばいいだけのことだったのだ。そうしてお互いがそれぞれゴールに近づいていけばいい、たったそれだけのことだったのだ。その責をわざわざ負いたいかは置いておいて。

 攻撃が許されてしまう世界では心が張り詰めてとても生きていけない。誰に傷つけられるか分からないぴりぴりした日が続くよりも誰からも攻撃されない穏やかな日が続く方がいい。だから明文化された法律や不文律のモラルやマナーが存在するんだろう。誰も、誰の身体・心・尊厳……何をも犯してはならないことを国境や人種関係なく共通のルールとして根底に敷いておく。そうやって世界は回るし人間の営みは続いていく。
 だけど、直線上では始まったばかりの方にいる他害・他責的な人間たちはまだそのことに気付けていない。見えていないのだ。見えていないことには気付けない。気付いてほしいのであればその人に見えるように、その人に伝わる表現で伝えなくてはいけない。その人の中で顕在化されていないことに対する不文律への理解はあまりに難しいことだから、繰り返し何度も伝えなくてはいけない。

いつしか誰もが砂になれる

 もしかしたら誰しもが最初は他害・他責的なのかもしれない。誰かのせいにすることはあまりにも簡単で、意図的に人を傷つけ思い通りにいくことは快楽さえ感じ得る。
 だけど、それは人間界に敷かれた根底のルールに背く行為だ。わたしたちは成長するまでにそういうことをしてはいけないと誰かに/何かに教えられ、いずれ自分自身でも本当に理解したころようやく他害・他責というのはひどく醜悪で恥ずべき行為であるかに気付き、できる限り誰も傷付けないように他人に対して思いやりを持ち、配慮し、多くのことを許せるようになる気がする。
 それこそが直線の前の方に進んだということだろう。
 伝えあい、許しあうこと、それを続けて回っていくことでいつしか砂に、はじまりも終わりもない存在になれるのかもしれない。

 きっとわたしを害してきた人間にも、「それって人を傷つけているよ、人を傷つけてはいけないよね?」というその人がまだ見えていないことを伝え続け、その人が行動を変えることができれば来来世くらいで、人間以外の来世も選べるのではないだろうか(とりあえず来世は苦しみながら生きる人間になってほしい。そうでないとこちらの溜飲が下がらない)。
 ただ、わたしにはその責をわざわざ負うほどその人に対して強い思いはない。見えていないものが見えるように、伝わるように伝わるまで何回も伝えるなんてことしてくれる他人がそうそう存在するわけないのだ。


 それにわたしは来世羊になりたい程度には未熟な人間だから。

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