ライフ・クラフティングを踏まえて人生を振り返ってみた

今日、人生観について話す機会がありました。
同じゼミの同級生は喧嘩にならないぐらい私と考え方が違い、そんな生き方があるのかと感心したところです。

そんな私の生き方は、とても自由です。


私はちっちゃい頃から自由意志を尊重されていた方だったと思います。

習い事も学校も、辞めたいと言う時があれど、反対されることがあれど、その都度納得して自分で選択した実感がありました。(中受は完全に自分から言い出しましたし、小受すら頼みました。反対されて譲歩しましたが)

私の人生の基本的な方針として、
好きなことしかやりたくない
があります。


勉強だってなんやかんや好きです。
何故好きなのか当時は分かっていませんでしたが、どうやら頭を使って試行錯誤している状態が好きなようです。私は。

若干多動症の傾向があるからか、寝るのが嫌いで、趣味は多いので読書に物書きに絵に裁縫にと没頭することの多い日々でした。あと音楽。

そして自分とは何なのか、自分はどうなりたいのか考えるのが好きでした。


小学生からあれこれ思考を回して文章に起こすのが大好きだったので、物語のヒロインに憧れて色々な文章を書きました。

見た目から、思考から、自分の理想を文章に組み立てて具現化し、そこに向かって全力で進んでいくようになりました。

実現できたかは置いておいて、その時の自分が苦しかったのもひっくるめて、今思えば楽しい日々だったと思います。


決定的に私の人生観が変わってしまったのは、受験を経てからです。
(p.s. 書いていて気づいたのですが、全然軸がぶれていませんね。)

ずっと高みを目指していた当時の私は、私なりのやり方で何度やっても上手くいかないことに完全に焦っていました。
趣味の美容も読書もかなぐり捨てて勉強したのに、返ってくるのは上がらない成績。
過食に走り、勉強したくてもできない日々が続き、結果は親が浪人を許すぐらい惨敗。

浪人した時、もう一度自分を考え直しました。
私は何を目指していた?私はどうなりたい?

小学校の頃に目指していた心理学者という夢と当時の状況が合体し、今の学部に来ることとなりました。

その時、完璧じゃなくてもやることをやっていれば結果がでることを学びました。
いい意味で、自分に完璧を課すことがなくなりました。



大学に入ってからどうなったかというと。

大学生って意外と自分を見つめ直す機会がなくて。

というのも、気の合う友人やサークルに揉まれると、どうしても自分と向き合う時間が減ってしまいました。
その当時しかできなかった貴重な体験は何にも代えられませんが、元々人付き合いの苦手な私は収束するべき方向に収束しつつあります。
私に関わってもらった数々の人達に感謝をしているのは大前提ですが、趣味や勉強に向き合えず、承認欲求を満たすだけの日々に迷いがあったのは事実です。

そんな日々の中でパートナーと出会い、母が急死し、サークルは辞め、身体は倒れるようになり、いつの間にか私を取り巻く身体から人間関係までグラグラ変化していきました。

夜は眠れず朝は起きれず、学校にも行けなくなってバイト先でも倒れるようになりました。あらゆるプッシュがあって心療内科を受診しました。
今はとりあえず睡眠薬と気持ちが落ち着く薬を飲みつつ、単位を落とさないかヒヤヒヤしながら過ごしています。


そして今これを書いていて、ちょうど自分を見直してこれからどうするかを考える時期だとつくづく感じています。

色んなことがぐちゃぐちゃになって時間だけがある今、自分を振り返ってどう生きていくか考えるにはちょうど良いのです。


正直なところ、いつでも安楽死できるなら、貯金を使い果たして売れるものを全部売って好きなものを買い、好きな人たちと旅行に行って身辺整理を済ませたら死にます。

なぜなら、これからどんな幸福が私に訪れるにしても、大切な人を失う悲しさに代えられる幸福なんてないと思っているからです。

母を失った経験は私の中でものすごく大きく、この世で最も信頼できる人がいなくなってしまった喪失感に今でも苦しんでいます。

あれから1年経とうとしていますが、悲しみが癒える兆しはなく、普段は心に鍵をかけて過ごしていますが、母のいない実家に帰りたくなかったり、ふとした時に夢を見て大号泣したりという日々です。

正直今私が生きているのは、母と同じぐらい信頼できるパートナーがいるからであり、その人がいなかったらば私はこの世にいないか廃人になっていたと思います。

どんなに仲良くしてくれている人達がいたとしても、その人たちが自分とほぼ融合しているぐらいに近しくない場合を除いて、その人たちにとって私の代わりがいない場合を除いて、ほとんどは死を止められないのだと私は思っています(私の価値観なので他の人が違う可能性は十二分にあります)。そして大概の場合、その人達にとって"友人"とか"先輩"とかのペルソナを被れる人達がいて、私がいなくても世界は崩壊しないのです。

今私が生きているのは、一重に私がいないと代わりに死んでしまう存在がいるからであり、その存在さえなければ簡単に人生なんて手放せるでしょう。


しかし、そんな現世との足枷もあるので、私は生きなければいけません。

好きなことしかしたくないがモットーの私は、今人生をどうすればいいか考えあぐねている状態です。

時々すごいお熱を出してやらなければいけないことを全てほっぽりだして趣味をすることもありますが、その時も本来やるべきことからは逃げているので本気で楽しめていません。時間がある時は特に意欲も湧かず、趣味を楽しんだと言える時間はもうずっと昔のように感じます。

かつてよりは短くなりましたが、唯一文章だけが、私の続けられた趣味でしょう。これもペラペラ人間になってアウトプットすることがなくなってから、書けないことに何度も苦しみました。


映画すら見れず、休日があったら本当にずっと寝て無意味なパズルゲームをしている今、どうやって生きたいのでしょう?


まず、大きな将来の夢を言いましょう。
これはある程度固まっています。

20〜30代は、仕事に没頭して、ある程度は稼ぎたいです。もう少し大人になった自分を考えると、社会の大きな枠組みに取り込まれてみたい気持ちがあります。そして今後好きなことをするための資金を貯めつつ、色々なことに使いたいです。

それと並行して、今のパートナーとも一緒にいたいです。もうほとんど家族ぐるみの付き合いをしていますが、一緒に住み、正式に家族になって、手術の同意をとれたり看取れたりする立場になりたいです。
もし時短勤務やパートに切り替える場合は、心理に関わるお仕事がしたいです。

そして40〜50代でもし機会があれば転職したいです。機会がなければそのままの職場で地を固めたいです。

私の時代に定年という概念があるのかは知りませんが、もし定年を過ぎたらば心理の実践に関わるお仕事がしたいです。もしくは今の社会人院生さんを見ていると、ここで大学に行っても面白いな、などと考える日々です。


心理のお仕事は絶対にしたいです。
なぜなら好きで仕事にできることなので(年収や雇用形態はの話は一旦置いておいて)。

しかしそこに行き着くまでにどうしようかは、今一度見直す必要があるかもしれないと思っています。


私は公認心理師の資格をとりたく、今の研究室に入り、授業をとっています。
しかし、今の状態だと、4年までに科目を取り切れるかは正直疑問です。
今のところ奇跡的に取りこぼしはないですが、前期よりはマシなはずの今期に様々な授業に出られないことがチラホラと増えています。課題も全然出していません。

このままだと院進を決めているのにも関わらず、院進のために立てた目標である公認心理師がとれない可能性があります。


でも、もしそうだったとしても。
私はもしかしたら自分を許せるかもしれないと、やっと今思いつつあります。

公認心理師を目指す過程には、どうしても悲嘆に触れる機会があり、自分の心が耐えられるのかどうか不安な部分があります。適性で落とされるかもしれないレベルです。

もし今期で私が単位を落とし、来年公認心理師になれる機会を完全に失ったとしたら、それは私が取るべき時期ではなかったからだと思えるようになりつつあります。

かつての私のように、「この学部に入り、公認心理師科目をとって院卒して資格をとりたい!」という思い自体が今の私に重くのしかかっていたと今なら自覚ができます。
別に人生は長いわけだし、今取れなかったからといって人生が終わるわけでも、自分がやりたいことがやれなくなるわけではないと心の底から何となく思えるのです。

世の中には思ったより心理に関わるお仕事が多く、今の大学でなくても取れる資格も沢山あることが少しだけ分かるのもあります。
そのためにはお金と時間と理解ある人間関係が必要ですが、それは就職してしまってから考えても遅くはないでしょう。


今の私には、正直夢を描いて一直線に進めるだけの余力はありません。
それでも、今できることをして、後悔のない人生を送りたいなとは思います。
そして好きなことを選び取り、好きなことと好きな人達のために自分の限りあるリソースを使いたい。

それが今の私の人生観です。

ずっと好きを選ぶのは、好きという気持ちが湧かないときには難しいことです。それは今の私が痛感しています。

それでも、嫌な自分を選択肢から取り除いていけば、妥協点は残ります。
その妥協点を軸にしつつ、ゆっくり休めばいいのではないでしょうか。
好きはきっと蘇るとのんびり構えましょう。


自分と向き合う機会がなくなればなくなるほど、自分と向き合うのは怖いものです。
信じていた指針が崩れるのは怖いです。
それでも、今向き合えたことに救いを感じています。

なかなか前には進めない日々ですが、心の片隅で私を応援して下さるととてもとても嬉しいです。
これをまた後で見返した時、私がなんて思うのかが楽しみです。笑ってくれたら嬉しいな。


とりあえず自分の妥協点として、余力があるのにやるべきことをほっぽりだして逃げるのは嫌なので、今から今日までの統計の課題に取り掛かりたいと思います。

ここまで読んでくださった方がいるのかは分かりませんが、自語りに付き合って下さり本当にありがとう。身体に気をつけて、あまり無理をかけないでお過ごしください。

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