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ドアの向こうへ vol.18

~鳥谷部 昇のドアが開いた~

鳥谷部昇、美樹の父親はS市の市役所に勤務している。60歳の定年まであと1年の、2014年の4月に【福祉部・障がい者支援課】へ課長待遇で配属された。引きこもりに関する相談を受け支援をする課だ。
昇はこの課へ来るまで、【引きこもり】は、根性のない、怠け者の姿だと、ずっと思っていた。まして、娘の美樹がそのような状態だから、尚の事、正面から向き合うことを避けてもいた。
 この課では月に一度、社会福祉士を講師に招いて研修も開催していた。講義を受けて行くうちに、自分の【引きこもり】への考えが、偏見で満ちていたことに気づかされた。
自分の時代の仕事のやり方がそのまま、通用するものばかりだと思っていたし、今までもそうやって仕事をこなして来た。だが、それは、必ずしも正しいことではなかったと、思い始めてきた。

【引きこもり】はTVの特集番組だけの世界だと思っていたが、連日のように家族や本人が相談のために訪れてくるのだ。
配属から半年がたった頃、30代位の女性が相談へやって来た。女性スタッフの方が適しているかもしれないが、他の相談者の対応に当たっていた。
「どうなさいました?」と優しく声をかけてみる。
「はい・・・・・・」と言い澱んでいる。
「慌てなくていいですよ、落ち着いてからお話くださいね」といって、用意してあるポットから紙コップへお茶を注いだ。
 家でお茶なんて入れたこともないのに、仕事とはいえ、こんなことが俺にもできるのか、稚出だがこんな自分に驚いた。

「あ、ありがとうございます・・・・」女性は一口お茶を飲んで
「親が、毎日のように言うんです、いつから会社へ行くんだって」
「そうでしたか、それはまた、辛いですよね、ご両親ともそう、おっしゃるのですか」
「特に、母が言います・・・私が若い時はそんな事、許されなかったんだ・・・と母が働いていた頃の話をします」
「そうですか、失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」と聞いてみた。
「はい、井上、井上紗栄子と言います」と言って、またお茶を飲んだ。

「ありがとうございます、井上さんですね」
「井上さんへもう一つ伺いますが、お仕事は何をされているのでしょうか」
「はい・・・・ご存じないかもしれませんが、都内のアパレル会社のパタンナーをしています」と、ここで紗栄子は初めて顔を上げてこちらを見た。
彼女はこのパタンナーの仕事に自信があるのだな・・・こちらにまっすぐ向けられた視線に俺は思った。

「すみません、おっしゃる通りで、パタンナーとはどういったお仕事ですか」と聞いてみる。
少し表情が和らいで彼女はしゃべりだした。
「はい、簡単に言うとデザイナーの図案を元に型紙を作る仕事です。だけどただ型紙を起こすだけではなく、デザイナーの意図することまでもそのデザイン画から読み取ることも必要なんです」と、彼女は実に、いきいきとしてしゃべっている。
「だから、売れっ子デザイナーのお気に入りのパタンナーになるため、みんな必死でパタンナーテクニックを身に着けます、つまりそれが売れっ子のパタンナーになることなんです・・・・だけど・・・・」と急に表情が暗くなった。

「だけど、何かあったのですか」
「・・・・ひがみに聞こえるかもしれませんが、パタンナーの腕はさほどでもないのにデザイナーへのアプローチが上手なパタンナーがいて、プレゼンもなしで、いつもその彼女に決まってしまうんです」
「なるほど、不満に思っているのは、井上さんだけではなかったようですか」
「はい、私とそのパタンナー以外に6名いるんです、みんな陰では不満を言ってるんです。でも、そのデザイナーや上司へはその不満はぶつけていなかったんです」
「私、このままでは、この部署の雰囲気が悪くなると思って、上司とデザイナーへ直接意見を申し出たんです」

「そうでしたか、思い切りましたね」
「ええ、・・・周りの皆も同意見だったしその7名の中で、一番年長という事もあって、デザイナーからの図案が出来たらそれを元に起こしたパタンナーのプレゼンをして欲しいと要求したんです」
「正当な要求だとおもいますよ」と俺は応えた。
「そうですよね」と言って俺のIDカードを読んでいる。
「あ、私、鳥谷部と申します」
「鳥谷部さんもそう思いますよね」とここへ来てから、一番大きな声だった。

「それなのに・・・・その次の日から、賛同していた皆も急に、よそよそしくなり、話しかけても無視をされ始めました・・・」
「そうでしたか、井上さんの要求は自分だけのためじゃなく、他の皆さんの為の行動だったのにですか」
「そうなんです、要求をしたことで私は上司やデザイナーへ逆らうパタンナーと言うレッテルを貼られてしまいました」
「それは辛かったのではないですか」
「はい、こんな扱いや仕打ちに負けるものかと、必死に仕事をしていました。ほかのデザイナーからの型紙起こしの仕事は回って来ていたので気が紛れましたが、上司、デザイナー、7名のパタンナーの9対1の状態でした」
井上の話がここで、とまった。

「・・・・・・」
泣いているようだ。
出していたお茶がすっかり冷めていたので、新しいのを淹れ直した。
「どうぞ、落ち着いてからでいいですよ・・・」
「ありがとうございます、優しいんですね、鳥谷部さん」
「ありがとうございます、私にも井上さんと同世代の娘がいるものですから他人ごとと思えなくてね」
そうか、娘の美樹の引きこもった理由は妻から聞いていたが、理解しようとしていなかったのでは、今日のように、井上の話を正面から聞くという事をしてこなかったのではと、今頃になって気がついた。

「お嬢さんが羨ましい・・・優しく話を聞いてくれるお父さんで」
「いやいやいや・・・・」と本気で恥ずかしくて消え入りたい俺だった。

「そんな雰囲気の中では、やはり身体が持ちませんでした。朝起きられなかったり、やっと起きても会社に行けず、公園で一日過ごしたり、電車の入ってきたホームへ飛び込もうとして傍にいた人に止めてもらったり・・・そんなことがあって、この半年ほど会社を休んでいるんです」

「そうでしたか・・・・承知しました、ここの相談窓口から連携している公的な支援センターがあります。有資格者の社会福祉士や精神保健福祉士などが常駐しているセンターです、このセンターへ出向いてみるのも良いと思います」
「支援センターですか」
「はい、井上さんご自身は引きこもってしまった要因が分かってらっしゃいます、この支援センターはご家族の支援をも行っておりまして、引きこもりに至ってしまった原因やその理解を一緒に考えて行くことをしております」
「家の両親は行きたがるかしら」
「そうですね、その辺は、こちらからも、アプローチ致します、ご本人様からだとお話づらいと思いますから、私どもの支援スタッフがご自宅へ訪問することも行っておりますので、ご安心ください」そしてこう続けた。

「井上さん、よくここへいらしてくださいました。ここへいらっしゃるまで、随分と迷われたと思います・・・・でも、ここへいらしてくれたことが、前へ進むための始まりです、井上さんの前にあるドアを自分で開けられたのです、それはとても素晴らしいことなんです」と、俺は彼女の顔をまっすぐ見てこう言った。
「・・・・ありがとうございます。お話しを聞いて下さったことだけでも嬉しいのに、そんな素晴らしいなんて言われると、ちょっと恥ずかしい感じです」と初めて笑顔を見せた。そんな、井上が愛おしく見えてくる。
そして、どうしても、美樹と重なって見えてしまう・・・・

その後、井上の連絡先を一通り聞いてから
「こちらが支援センターの詳細です、ご家族へお見せにならなくても構いません、それとここの連絡先と私の名前も記載しておきましたから、遠慮なさらず、いつでも、相談してくださいね」と伝えた。
「鳥谷部さん、何だか元気が出ました。今日の事を両親へ伝えてみます、ありがとうございました」
「こちらこそ、どういたしまして、決して無理なさらずに、お過ごしくださいね」
 半年間の研修の成果を試すような、体験だった。

《続く》

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