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ドアの向こうへ vol.28

師匠の容体は変わらないまま、3日間が過ぎ、日曜の朝を迎えた。
今日は父の落語カフェへ行く日だ。
「あぁ、お父さん、由美子、うん、今日よろしくね。9時過ぎの
電車で行くよ、うん、大丈夫だよ、そうそう、お友達の美樹さん、
そうそう、前にも言っていた、その美樹さん、も来てくれるって、
うん、そうそう、ね。ありがたいよね。うん、じゃぁまた後でね」
師匠の事を伝えるかどうか迷ったけど、胸にしまい込んんで電話を切った。

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 愛用の自転車で駅に乗り付ける。
最近は高座へ行くにも自転車だ。タクシー代など交通費も馬鹿にならないから、先月に購入した。乗ってみると小回りが利いて非常に使い勝手が良い。
  駅の脇のいつも満車状態の駐輪場へ、何とか隙間を見つけて施錠をして置く。こんなにたくさんの放置自転車、持ち主はどう思ってるんだろな、もったいなくないのかな置きっぱなしで、などと独り言を言いながら、ホームへ向かう。
 ホームへ上ると電車はすでに停まっていた。出入り口の直ぐ脇の座席か、そこが埋まっていれば、そこへ立つのだが、日曜日のせいもあってその場所は空席だった。リュックを下し、座って膝に乗せる。このリュックをまじまじと見た。随分とあちこち傷んでいる。ここへ来てからずっと使っているもんな・・・
初めての都会で、途方に暮れた時に見つけた、あの父の手紙が入っていた、メッシュのポケットもすっかりゴムが伸びきって網目もところどころほつれたり切れたりしている。
「おまえさんと、ずっと一緒だったねぇ」
リュックを撫でながら
「背中でずっと見ていたんだろう私の事を」
と話しかけた。人が見たら危ないヤツに見えているはずだ。
「ありがとね、見守ってくれて」などとぶつぶつ言っていると、警笛が鳴り、電車が動き出した。

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 リュックから今日の噺を書き込んだノートを取り出して、おさらいを
始めた。ぶつぶつとつぶやいては、ノートに目を落とす。おっと違った、などと、つぶやいては、またノートを見直す。途中で乗り込んで来た親子が向かい側に座っている。その女の子と目が合った。何やってんだろうって顔で、こちらを見ている。笑って目だけで挨拶をすると、女の子は隣にいる母親へ何やら耳打ちしている。母親は傾けた顔を元に戻して
「そんなに見ないの・・・」
と、無機質に応えた。母親へも、笑いかけようとしたけど、その声で視線を手元のノートに落とした。
 そんなに怪しいもんじゃありませんけどね、と心の中で、あっかんべーをした。久々のあっかんべーだったので、思わず笑ってしまった。
その親子は、いよいよ気味悪くなったのか、席を立って後方の車両へ行ってしまった。何だかなぁ・・・と思いながら再びノートに目を落とした。
 H駅に停まった。ドアが開き、左横にいた男性が下りて行った。開いたドアから春の香りが入り込んで来た。出発のベルと車内アナウンスが聞こえ電車は動き出した、とその時、
「なんだか厭ね」と突然、座っている側のドア付近から声が聞こえた。
電車の揺れに合わせて、顔を上げると、ドア横の手すりにつかまって立っている母がそこにいた。

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「お、お母さん、いつからいたの」
「電車が出発した時からいたわよ、お稽古に夢中だったから、声をかけなかったの」
「そうなんだ、ごめんごめん、気が付かなくて」
「いいのよ、それより、勝平師匠大事にならなければ良いわね」と言って、母は隣の席へ座った。
「うん、今は落ち着いているようだから、それに、師匠の奥さんが、入院先の看護師長だから、安心だし・・・」
「そうね、安心だわね・・・」
「ねぇ、お母さん、子供のころ電車乗って、お出かけした時のこと覚えてる?」
「もちろん、忘れるわけないじゃない」
「さっきみたいなことがあったよね」
「そうね、由美ちゃんが、向かい側のおじさんが、何か独り言のような事を言ってたから、あのおじさん何かの博士さんかなって聞いて来てね」
「そして、おじさんと目が合っちゃって、そしたら、お母さんが、すみません、うちの子が、おじさんは、博士さんかなって、言ってますのって笑って声かけたんだよね。そのおじさんに」
「そしたら、おじさん、あっ、声洩れてましたか、すみません。いやいや、博士なんて滅相もないって笑いながら、今日、後輩の結婚式で祝辞を頼まれちゃって、なるたけ手元を見ないようにと、暗唱してたんですって言って照れてたわよね」
そうか、やっぱりお母さん覚えていたか、だからさっきの親子の事が厭な感じってなる訳だ。

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「ほんと、あっかんべーだわよね。失礼しちゃう」と、お互い顔を見合わせて、あっかんべーをしながら笑った。間違いなくおかしな親子に見えているはずだ。
あれ?、待てよ、他の人から見えているのかな、お母さんのこと・・・
「見えているわよ、由美ちゃんが人混みや乗り物の中にいる時には、誰からでも姿が見えるようにしてるの、ぶつかったり、座られてもこちらは大丈夫だけど、一人でぶつぶつ言ってると、ますます由美ちゃんが、変な子って思われちゃうから」
そう言って、あはははといつものように笑った。
「ますますって・・・」つられて私も笑った。そして、ちょうど電車がS市駅の一つ手前のN駅に停まった。
「良かった、由美ちゃんの笑顔を見れて、私ここで降りるからね、先にお父さんところへ行ってるから、後でね」
「うん、分かった。後でね」
母は私を気づかって来てくれたんだ。ほんとに、いつでも、優しい母だ。
S市駅まで後20分位で到着する。
よし、あの時のおじさんみたいに暗唱してみるかな、ノートを閉じて、またぶつぶつと言い出した。

《続く》

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