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起きたら大学生がまた走っていた。
今日までお正月。初夢ではない夢は前に僕のマリさんと作った日記集をTwitterで絶賛してもらえるという夢だった。つぶやいていることが僕が目指していることだからか、嬉しい感想だったが夢。
夢日記を書き続けると狂ってしまうみたいなことを宮崎あおいの映画で言っていた。害虫だ。沢木哲が宮崎あおいのスカートを覗くシーンだけ鮮明に覚えている。あとナンバーガールが流れていた。僕の中の少女は少しだけ暴力が付きまとうのは「害虫」のせいかもしれない。

今日は妻の親戚の家と実家へ行く。本を読む暇なんてないのはわかっているが、鞄には「プルーストを読む生活」を入れておく。電車の中で読もうと思ったが、読む助走としてTwitterを見ているうちに駅についてしまった。本を読むときはいつだって助走が必要で、Twitterがいつも読むときの助走になる。あらゆる文体と感情があるのが良いのかもしれない。電子書籍にすれば助走をせずに読むことができるのかもしれない。

かもしれないばかりで確定することは、本を読めずに帰宅したということだけで、寝る前の時間で本を読み始める。
「意味なんてないが暮らしがあるというだけでもなく、暮らしというのも一日一日、ひとつひとつの出来事や行為の総合であって、意味と同じように暮らしにもフィジカルな実体は実感はない」
実体や実感はない、だということならば、似たようなことを思っている。この日記についても意味はない。
ただ読んでいるということについての日記だけで、実体はない。妻のゆかりさんについては別の日記で書く予定で、本の周りのことだけを書いている。これは読書日記なのだろうか。
暮らしているということは生きているということだろうか。生きていることには疑問を持つことはない。害虫の時の宮崎あおいのように、日々を見つめる目は尖っていない。くらし、と平仮名で書くような丸みを帯びた目で生活している。

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