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ビッグディック・パンデミック(Ⅱ)

(Ⅰ):https://note.com/_gonsuke/n/n3b41fe4b302b

「はぁ・・・せんせい・・・・」
 机に突っ伏して、目の前のビーカーをひと撫でする左梨奈さりな。学校指定のセーラーではなく、小さいファーのようなものが付いたピンクのパジャマ姿だった。ただし、その上から軽く白衣のようなものを羽織っている。
 年頃の女の子の部屋にしては随分と無機質な場所だった。決して狭くはなさそうだが、窓は一つもなく、コンピューターや薬物が所狭しと並んでいる。何かの実験に使うものだろうか、機材は床に散らかり放題で、左梨奈のデスクだけが濁流の中取り残された島みたいに一つ浮かんでいた。
 左梨奈の瞳がうっとりと輝いて、ビーカーの中に詰まった液体の中を反射した。緑色にどぎつく光る水の中を、一本の毛髪が泳いでいる。左梨奈はそれに小さく息を吹きかけて、またじっと愛おしそうに視線を向けた。
 そのままじっとビーカーに向き合っている左梨奈の後ろ、部屋の扉が数回ノックされた。
「左梨奈様」
 向こう側からそう呼びかける声がするが、左梨奈は応答しない。そんな気配を察してか、自動式のスライドドアがそのままシュンと開く。そこには例のリーダー格の女性が立っていた。格好は学校にいたときと変わらず黒服のままだ。この前とは違いサングラスがないせいか、顔がよく見える。その外見から察するに年齢はおおよそ三十歳手前といったところだった。
「左梨奈様」
 黒服の女性、松本沙知代まつもとさちよがもう一度呼びかけるが、相変わらず反応は得られない。
 沙知代は一つため息をつくと、もう一度左梨奈に向かって大きな声を出した。
右鷺うさぎ様」
 左梨奈がハッとして沙知代の方を振り向く。
「・・・の血液鑑定、終わりましたよ」
 そう言って左梨奈にタブレット端末を手渡す。散らかり放題の床を進むのは慣れたものらしかった。
「あっ、沙知代さん。ありがと」
 左梨奈はそれを受け取り、そそくさとデータを確認し始めた。
「んー・・・まぁ、そうだよね」
 しかしものの数秒で興味を失ったようで、すぐに端末から目を離してしまった。
「まぁ、予想通りの結果ではありましたね。やはり右鷺様のDNAは普通と変わりありません。・・・あの体質は甚だ疑問です」
「今回は血液まで手に入ったからなあ。もう少し何かわかると思ったんだけど」
 左梨奈は机の上でとんとんと指を動かす。それから少し考えるようにして顎に指を当てると、ひらめいたようにこう言った。
「あっ、そうだ。クロマトヘズグラフティー試験は?した?」
「はぁっ!?」
 沙知代が信じられないとでもいうように大声を出す。
「あれにいくらかかると思ってるんです!?いくらお嬢様でもそんな簡単に許可降りませんよ!あのねぇ、イヴジェノミクスの資源は無限じゃないんですよ!教育係として言わせてもらいますけど・・・」
 まくしたてる沙知代を見て、左梨奈がくすくすと笑い出す。
「えーっ、私の教育係ならわかるでしょ?右鷺先生の体はそれだけの価値があるもん。・・・・じゃ、よろしくね?」
 そう言って左梨奈はタブレット端末を沙知代に差し出した。
 結局何も言い返すことができず、沙知代は黙ってそれをひったくる。何回か地団駄のように足を鳴らすが、何か思いついたのか、ニヤリと笑って後ろ手にあったガラスの筒を取り出した。
「じゃあこれ、処分しておいていいですかね。付着していた血液は取れましたから」
 筒の中には、ホルマリン漬けにされたスリッパが入っている。あの夜右鷺が廊下で転んですっ飛ばしたものだった。
「えぇっ!!??」
 今度は左梨奈が信じられないとでも言うように大声を出した。
「だ、だ、だめ!だめだよそんなの!せんせいの私物でしょ!私が保管する!!!」
 筒を奪い、両手で抱きしめる左梨奈。
 それを見た沙知代は満足半分、呆れ半分といった様子で苦笑いする。
「右鷺様とのデート、来週でしたっけ?おしゃれしないといけませんね」
 どこか得意げな沙知代を、左梨奈は少し不満そうに見上げた。

 次の日曜日、右鷺うさぎは遊園地に来ていた。
 入園前の広場には行列ができており、人々の楽しそうな笑い声が聞こえる。
 あの夜から一週間が経過し、世間はもうすっかり夏休みモードになっていた。もちろん右鷺が勤務する聖ナヘマ学園もそうなのだが、学園に生徒が来ないというだけで、研修を受けたり、提出資料を作ったり、点検作業をしたりと、教員が夏休みの間にしなければならないことは多い。ついこの間まで学生だった右鷺にとって、こういう形の七月はある意味新鮮なものだった。
(あっつ・・・)
 右鷺はTシャツの首元をバタバタとはためかせる。ブルージーンズに白T、キャップという楽な格好ではあったが、周りのいかにもよそ行きという人たちに比べると多少悪目立ちしていた。
(でも、浮かれてるって思われるのも嫌だしよ・・・)
 そんなことを考えながら、汗を拭こうとポケットからハンカチを取り出す。それと一緒に遊園地のチケットがこぼれ落ちて、右鷺は慌てて拾い上げた。チケットは夏休みに入る前に左梨奈から受け取ったもので、よく見るとクシャクシャになっている。これは右鷺が雑に扱っていたからではなく、むしろその逆で、道中ずっと失くさないようにポケットの中で握りしめていたからだった。
(いやいや、違うから。別に楽しみにしてたとかじゃないから)
 右鷺はしわくちゃになったチケットを必死で伸ばす。
 よくよく考えてみれば、右鷺にとってこれは人生初のちゃんとしたデートだった。正確に言えば中学生の時に先輩と出かけたこともあるのだが、あの時は待ち合わせ場所で会っただけで男を呼んでしまったのでそれどころではなかった。そんな彼女にとって、遊園地デートとはまさに定番中の定番、憧れと言ってよかった。
(いやいや、体質の事言いふらすって言われたし。だからこれは脅されて来ているだけであって、デートじゃないから。ノーカンだから)
 体はなぜか先程より熱くなっている。手うちわで必死になって扇いでいると、誰かが右鷺の肩を叩いた。
「せーんせっ」
 右鷺の体が一瞬ぴくっと跳ねる。
「ごめんね。またせちゃった?」
 そこには左梨奈さりなが立っていた。
 その声色は、保健室でいつも見る調子と変わりがない。右鷺もなるべくいつもの感じと変わらないように答えた。
「お、おう。いや・・・アタシがちょっと早めについただけだから。時間通りだよ」「えへっ、ありがと。本当は私も早く来るつもりだったんだけど、服がなかなか決まらなくて」
 左梨奈は右鷺の前で軽く手を広げてみせる。
「せんせいに見劣りしないように、頑張って大人っぽいのにしたの。・・・どうかな?」
 少し恥ずかしそうにして、小さく体を捻る。
 ボトムスはグレーのタイトスカートで、丈は膝上くらいだった。ただし、上にもう一枚ロングスカートのように布が巻きつけられており、それが大胆なスリットのような役目を果たしている。それをトップスの黒いTシャツが引き締めており、シックな色合いは革鞄との相性もバッチリだった。靴は歩き回ることを想定してかスニーカーだが、決して子供っぽくなく、むしろ全体にうまくカジュアルさをプラスしている。よく見るとハイブランドの逸品で、綺麗な白からは靴がおろされてからまださほど時間が経ってないことが伺えた。更に、髪型もいつもとは違う。ハーフアップではなくポニーテールで、耳元には小指ほどの大きさのピアスが輝いている。メイクも少し変えてきているようだったが、あまり背伸びしすぎずあくまでもいつもの範囲内にしているようだった。
 正直めちゃくちゃかわいい。道行く人が十人いたら十人とも振り向く。右鷺は素直にそう口にしかけたが、そういう訳にもいかず、ただあー、とかえー、とかしどろもどろな返事をするしかなかった。こんな可愛い子の隣をこんな格好で歩くのかと考えると、右鷺はなんだかやるせない気持ちにもなってくる。
 なかなか言葉を発しない右鷺に業を煮やしてか、左梨奈が右鷺に一歩詰め寄った。
「かわいい?」
「・・・・。」
「ねぇせんせい、かわいい?」
「えーと・・・まぁ、似合うんじゃねーの・・・」
 目を背けて答える右鷺に、左梨奈は嬉しそうに微笑んだ。そのまま手を取って、右鷺に腕を絡める。
「せんせ、いこっ!」
 ちょうど開園時間になったらしく、列が動き始めていた。
 左梨奈は鞄からスマホを取り出し、メモを表示する。文字でびっしりと埋め尽くされ、これでもかというくらい参考画像が貼り付けられたそれを見て、右鷺は一瞬ぎょっとする。
「私ね、今日回る順番考えてきたんだ。アトラクション全部乗ろっ!」
「全部!?さっきパンフ見たけど相当色々あるよな?」
「そっ。最初はあれ!」
 左梨奈が指を指した先に、大きなジェットコースターが見える。
 まるで怪獣のように高くそびえ立つそれを見て、右鷺は慌てて言った。
「な、なあ。そんなに急ぐことないんじゃないか?ほら、あのメリーゴーランドとかどうよ?」
「えーっ。だめだよ。回る順番が大事なんだよ?人気のとこから行かなきゃ。大丈夫、私に任せてよ!」
 言葉に詰まる右鷺。
 実は彼女は高所恐怖症なのだが、それは今言い出せそうになかった。

 その数十分後。ジェットコースターに乗っている右鷺と左梨奈。
 徐々にてっぺんに近づいていく。がたがたと機体が揺れる。
 頂上。右鷺は目の前のセーフティバーをぎゅっと握りしめる。
「きゃーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!♪」
「ぎゃああああああああああああっ!!!!!!?」

 さらにその数十分後。今度は高いところからそのまま真っ逆さまに落下するタイプのアトラクション。
 ちらりと地面を覗き込む右鷺。さっきまで目の前で笑顔を貼り付けていた係員が、今はもう豆粒みたいなサイズになっている。
 慌てて顔をあげると、目の前に夏の抜けるような青空が広がった。背中で機械がなにか言っている。
 ・・・スリー、ツー、ワン。
 それが落下へのカウントダウンだと気づいた頃には、もう既に右鷺の体は無重力の中にあった。
「きゃーーーーーーーーっ!!!!!!♪」
「ぎゃああああああああっ!!!!!!?」

 そのまた更に数十分後。また別の手足がぶらんとしてるタイプのジェットコースター。
 右鷺の目の中で、緑色の影が天地無用に駆け巡っている。
 おそらくこの遊園地の植木か何かだろうが、もうそんなことどうでもいい。
 ただ上へ下へ右へ左へと投げ出される体に意識を追いつかせるのがやっとだった。
 すがりつくように奥歯を噛み締めて、感触を確かめる。
 大きな叫び声をあげる左梨奈に対して、右鷺はもうサンドバッグと化した木偶のようだった。
「きゃーーーーっ!!!♪」
「(青白い顔の右鷺)」

 そして数十分後。園内のベンチ。
 右鷺が下を向いて座っている。左梨奈がベンチに駆け寄ってきて、ペットボトルを渡す。
「・・・お水買ってきたよ」
 下を向いたまま、黙ってそれを受け取る右鷺。左梨奈が右鷺の隣に座る。
 右鷺はペットボトルを握ったまま動こうとしない。
 園内の時計が、十二時近くを指し示している。長針が一つ動いて、ようやく左梨奈が口を開いた。
「先生、ごめんね。ああいう乗り物苦手だったんだね」
「いや、アタシの方こそごめん。ちゃんと言えばよかった」
 ペットボトルに付いた水が滴り落ちる。じりじりとした日差しが、右鷺の体力を休んでいるそばから奪い取るようだった。
 ベンチに掛ける二人の前を、腕を組んだカップルが楽しそうにおしゃべりしながら通り過ぎる。
「・・・・・・・。」
「・・・・・・・。」
 二人の間にのしかかる沈黙を押し戻すように、左梨奈がうーんと背伸びをしてみせた。
「あはは、だめだなあ。初デートだからって張り切りすぎちゃった。反省、反省」
 明るく話す左梨奈に、右鷺は少し茶化したような調子で言った。
「そうなのか?てっきりデートとか慣れているものだとかと思ったぜ。イヴジェノミクスのお嬢様って聞いたし、モテるだろ」
 あの夜のあと、右鷺なりに少し左梨奈について調べていた。学園ではそれなりに有名人らしく、保健室にたむろしに来る生徒に聞けばすぐに情報は集まった。日本を代表するバイオ企業、イヴジェノミクスの社長令嬢。それが世間の左梨奈に対する評価だった。
 皆一様にその情報を口にしたが、逆にいえばそれ以上のことはわからなかった。
「・・・うん、そうだね。私、お嬢様なの」
 左梨奈は伸ばした手を膝に置き、続ける。
「それだけじゃないよ。私、神童って言われるぐらい頭いいんだから!すごいでしょ。ちやほやされてさ。・・・でも、実は付き合うどころかデートもしたことないの。笑っちゃうよね」
 明るい声色が、徐々に陰りを帯びていく。
「・・・だからなのかな。お前は人の気持ちがわからない、って、言われるの。ほんとにそうかも」
「・・・・。」
「へへ。私なりに、一応準備はしたんだけど」
 そう言うと左梨奈は下を向いてしまった。握り込んだ拳が、スカートに大きく皺を作る。
 右鷺は、直前の自分の言葉を強く恥じた。出生でその人の全てが決まる訳はない。そんな簡単なことを思いやらないで、自分勝手なバイアスで左梨奈を見ていた。
 ・・・それに、スマホにびっしりと書かれたあのメモ。左梨奈なりに今日のことを大事に思ってくれているのを、もっと尊重するべきだった。自分だってどこかデートに浮かれていたはずなのに、どうしてもっと早く気づいてやれなかったのだろう。
 黙り込む右鷺。それに悪気を感じたのか、左梨奈が慌てて声をかける。
「ごめんごめん、湿っぽくなっちゃった!今日は帰ろっか。また今度にしよ。その・・・もし次があれば」
 右鷺、勢いよく立ち上がる。ペットボトルの水を一気に飲み干す。
 ぐしゃっと握り潰して、左梨奈の前に片手を突き出した。
「・・・行こう」
「え?うん・・・え、えと、帰る・・・んだよね?」
「違う。ここから案外簡単に海に行けるんだ。そこに行こう」
 右鷺がポケットから携帯端末を取り出す。メモを表示させて、左梨奈に見せる。
「その・・・アタシも少しくらいは調べてたから・・・左梨奈ほどじゃないかもだけど」
「・・・いいの?」
「何だよ。お嬢様は海は嫌いか?」
 右鷺はもう一度ちょいちょい、と手を伸ばすが、左梨奈はなかなか取ろうとしない。もどかしくなった右鷺は自分の方から強引に手を取って、引き上げた。バランスを崩してよろける左梨奈を、右鷺が支える。
 二人は、互いに少し照れくさそうな笑顔を向けた。

 それから二人は、海に来ていた。
 とはいっても、元々この地域に海水浴場はない。実際は海というよりは小さな漁村で、砂浜にはあちらこちらに水揚げされた船が置いてある。観光地ではないためアクセスはあまり良くなく、二人は少し離れた駅でレンタカーを借りる必要があった。そのことに気づいたのも電車を降りてからで、デートの段取りとしては決して良いものではなかったが、今の二人にとってそれはあまり関係のないことだった。免許を取ってからあまり時間が経っていないこともあり、右鷺うさぎの運転では危なっかしい場面もちょくちょくあったが、それもまた笑ってここまで来ることができた。
 波打ち際で、裸足になった左梨奈さりながはしゃいでいる。
「せんせーーーっ!きてーーーーっっっ!!!!!!」
 今朝綺麗に結われていたはずのポニーテールは、もうぐしゃぐしゃになっていた。潮風で張り付いた髪の下から左梨奈の楽しそうな笑顔がのぞき、それを右鷺は砂浜から見ていた。
 時刻はもう日没に近い。波打ち際で跳ねる泡が、黄金色を撹拌しては砂に溶けていく。
「はやくーーーーーっ!!!!」
 砂浜には他に誰もいなかった。それをいいことに、左梨奈は右鷺にあらん限りの声をぶつける。右鷺は右鷺で、それを聞こえていないふりをしてへらへらと笑っていた。
 左梨奈が水際から上がり、右鷺の腕を引っ張る。
「せんせっ!せんせいも!水冷たくて気持ちいいよ!」
「お、おいっ!やめろよ、アタシはいいから・・・!」
 右鷺が抵抗すると、左梨奈も同じ分だけの力で返してきた。押し合いへし合いになり、バランスを崩した右鷺が砂浜に尻もちをつく。重い砂の感触が一気に靴に滑り込んだ。
「あー、もう、ふざけんなって」
 笑いながら靴を脱ぎ、右鷺は砂をはらう。海ではしゃぐなんて随分久しぶりだったし、社会人になって初めての夏がこんなになるとは思わなかった。なんとなく、社会に出て自分の力で稼ぐようになれば、こうやって子供らしく笑うことなんてなくなる、そう考えて気持ちに勝手に蓋をしていた。この前まで自分も学生だったというのに、おかしなことだった。ほんの数ヶ月で人は大人になろうとしてしまうらしい。いやむしろ、ついこの前まで学生だったからこそ、社会というものに対して必要以上の警戒心があったのかもしれない。
 そんなことを考えていると、左梨奈が右鷺の隣にとんと腰掛けた。
 右鷺は何も言わなかった。靴を片方脱いだまま、両手を後ろについて体重を預ける。強い風が頬を吹き付けて、それをそのまま思いっきり吸い込むと、冷たい潮風が肺をちらりと撫でていった。
 二人の正面、海の向こうで夕陽が見える。上空を覆い尽くすまっ平らな紺色と、いっそわざとらしいくらいのオレンジが、せめぎ合って夜を運んできていた。波が穏やかに揺れている。寄せては返す音につられて、このまま夜に身を任せてしまうのも悪くはなかった。
 しばらく海を眺めていると、左梨奈が右鷺の手を握った。右鷺は、握り返すことはしなかった。
 そのまま波がいくつか通り過ぎる。左梨奈はもう一つ身を寄せて、今度は右鷺の顔に唇を近づけた。
「おい、やめろって」
 右鷺はなるべく明るく、冗談めかして言った。そのまま左梨奈の方を向いてさり気なく距離をとろうとするが、彼女は臆さなかった。
 意図せず、左梨奈の顔が自分の息と触れる距離にきてしまう。
「・・・だめ?」
 静かだが、腹の底からゆっくりと出ている声で左梨奈が言った。
 沈みきらない夕陽が左梨奈の顔を照らす。視線は風に飛ばされず、まっすぐと右鷺に突き刺さっている。瞳の奥で煌々と燃える光から、彼女の気持ちが痛いほど伝わった。
 それを見て、右鷺も覚悟を決めた。
「・・・その、知ってるんだろ。アタシの体質のこと」
 左梨奈を傷つけないように、右鷺はあくまでやんわりと言った。
「だから、ダメだ。ごめん」
 右鷺がときめくと男を呼び寄せてしまう体質であることを、どうして左梨奈が知っているのか。本当はそれだって聞かなければならないが、今日の思い出を悪いものにしたくない。この言葉は右鷺なりの最大限の誠意だった。
 二人の視線がぶつかる。右鷺はそれから逃げなかった。
「・・・そうだよね」
 左梨奈が口を開いた。ぱっと顔をそらし、前を向く。
「ごめんね。せんせいが嫌がること、しちゃだめだよね」
 そのまま左梨奈は体育座りになって、顔を隠した。
 安堵と罪悪感が、同じ分だけ押し寄せてくる。彼女の気持ちは素直に嬉しかったが、それに応えるわけにはいかなかった。
 右鷺は左梨奈の肩を叩くが、じっとしたままぴくりとも動かない。何か言葉をかけるべきかと思ったが、今の自分にその資格はないような気もした。
 手を放して、また海の方へと向き直る。
 言葉はかけてあげられないが、せめてこのまま彼女の隣にいてあげよう。
 そう思った、次の瞬間。
「!!!!??????」
 右鷺の息が止まった。正確には、止められた。
 目の前に、左梨奈の顔がある。眉は八の字に曲がって、目が閉じられている彼女の表情が、はっきりと見てとれる。
 唇に触れる生暖かい感触。右鷺はようやく理解した。左梨奈にキスをされている。
「~~~~~~~~~~~!!!!!!!!????」
 右鷺の体がとっさに反応し、右手が左梨奈の肩を掴んだ。しかし左梨奈はそれを予測していたのか、すぐさま手を外して横にそらす。勢いで上半身が密着し、二人はまるで社交ダンスのペアのような形になった。
 右鷺の右手はなおも抵抗しようとバタバタ動く。しかし、左梨奈の左手が這い上がって、右鷺の手のひらをがっしりと掴んだ。そのまま握り込んで恋人つなぎにする。左梨奈の追撃はとどまるところを知らず、後ろに身を引いて逃げようとする右鷺に対して、今度は空いた右手で腰をしっかりと抱き込んだ。唇を押し込むとちょうどテコになり、右鷺の体はいとも簡単に砂浜に沈んだ。
 左梨奈の全体重が、容赦なく右鷺にのしかかる。手を滑り込ませ右鷺の体をしっかりと抱きしめると、唇に全神経を集中させ、そのまま右鷺の唇を執拗に責めた。左梨奈の上唇と右鷺の上唇。上唇と下唇。下唇と上唇。両唇と下唇。そして、舌。歯、唇のうら。まるで全ての場合分けを潰すみたいにして、左梨奈は右鷺を弄びつづけた。
 右鷺の抵抗が、次第に弱くなっていく。それを確認すると左梨奈は顔を上げた。乱れた息を整えつつも、両手でしっかりと右鷺を押さえつけている。
「だめ・・・ってことはさ。こうしたらときめいてくれる・・・って、ことだよね・・・?」
 息継ぎのついでとでもいうように一度短いキスをして、続ける。
「・・・ごめんね。せんせい。わたしそれ知っておあずけできるほど、いいこじゃない」
 そういうと左梨奈は、大きく息を吸って、そのまま潜水するみたいにして右鷺の唇にかぶりつく。舌が容赦なく口内に侵入して、理性を根こそぎ蹂躙するようだった。
 頭を掴んで乱暴に髪をかき乱してくる左梨奈に、右鷺はもう抵抗できなくなっていた。
 ぐちょっ、ぐちょっ。そんな水音が耳元を支配する。それと代わるがわる、左梨奈のか細い囁きが聞こえてくる。すき。すきっ。せんせい、すき。

(ううっ、)
(ちょっ、)
(こんなむりやりとか、反則だろおおおおお!!!!!!)

 きゅーん。

 右鷺の中に、あの嫌な感覚が浮かんだ。目が覚めるような心地がして、必死になって左梨奈を押し返す。しかしまだ放してくれない。これ以上はいい加減洒落にならない、そう考えた右鷺は、んーっ、んーっと必死に声を上げる。まるで格闘技で降参する時みたいに左梨奈の体をタップして、右鷺はようやく開放された。
 上半身を起こし、慌てて周囲を確認する。
 しかし、特に変わった様子はない。右を見て左を見て辺りに人影がないか探したが、それらしきものは見えない。
 夕陽の中で揺れる波は穏やかそのもので、右鷺はほっと胸をなでおろした。
「ばかっ!ほんとに出たらどうすんだよ!」
 そうして左梨奈を叱りつける。左梨奈もようやく我に返ったのか、唇に手を当ててバツの悪そうな顔をした。
「ご、ごめん。私・・・」
 左梨奈は自分のしたことが信じられないというような顔をしている。あんなことまでしておいてとんでもない奴だと思ったが、それ以上考えるとちゃんと思い出しそうになって、右鷺は慌てて思考にストップをかけた。
「ま、まぁ何事もなかったし・・・そろそろ暗くなっちまう。帰るか」
 右鷺はそう言って、勢いよく立ち上がる。とにかく今は、色々と整理したいことがありすぎた。正直完全にやってしまったと思ったのに、男はなぜ出てこなかったのだろう。左梨奈は、アタシの体質を知っていてなぜあんな強引に迫ってきたのだろう。・・・そして、あんなことをされて、もっと強く抵抗できたはずなのに、アタシはなんでしなかったんだろう。全てを処理するためには時間が欲しかった。
 背伸びをして、ぐっと息を吐く。
 夕陽はもう完全に地平線に着地している。あの数分もすれば沈んでしまいそうだった。
 その中に、一つ黒い点のようなものが見える。
(ん、さっきまであんなところに岩なんてあったか?)
 右鷺は訝しんで、手でひさしを作る。遠くに見える点にもう一度目を凝らした。
 よく見ると、岩から何か聞こえる気がする。
「オーイ」
 海に浮かぶ黒い点。岩に、海藻のようなものが載っている。
 どんどんと大きくなって、形になっていく。
 球と円柱。例えるならば、中学生のときに習った前方後円墳の形だろうか。それが相似形に膨らんでいく。どうやらこちらに近づいてきて来ているようだった。
 その正体を、右鷺は数テンポ遅れて理解した。
「―――――いややっぱり男出てんじゃねぇかああああ!!!!!」
 怒鳴りつけて、即座に左梨奈の手を取る。黒い影が大きくなっていく様子を見るに、それが異常なほど速いことは理解できる。考えている暇はなかった。護岸に停めてある車に向かって、右鷺は全速力で駆け出した。
「左梨奈っ!今すぐ家の人呼んでくれ!」
「う、うん!!」
 左梨奈も状況は飲み込めているようだった。走りながらスマホを取り出し、操作をしようとする。
 しかし、その瞬間。
 左梨奈のスマホはなぜか空中に舞っていた。間抜けな放物線を描いて、そのまま海に飛んでいく。
「話している時スマホ📱は非常識😰😰です😡👎そんなんじゃ、社会🏢🏢でやっていけません、、、😤😤✋✋✋わかってるカナ🤔⁉️ でも、大丈夫😅❤️ボク😎がちゃんと教えてあげるから、ネ😘😃✋💗」
「――――!!!!!!!」
 男だった。ついさっきまで海の中に見えたはずなのに、もう砂浜に上がってきている。
 二人の視界に、男の姿がはっきりと捉えられた。海藻かと思った頭は髪の毛で、水に濡れたせいかべっとりと、ひと目見て汚い。二本の足の間にバカでかいちんこがついているのは以前と同じだったが、今回の男はブリーフのようなものを履いていた。胸毛はネクタイのような模様をしていて、どことなく仕事着のような印象を漂わせる。左梨奈の手からスマホを弾き飛ばすし、何やら言葉のようなものを発していた。
「うわああああああああ!!!!」
 右鷺は落ちていた流木で、思いっきり男を殴りつける。以前学校で出くわした奴くらい頑丈ならば効果は望めなかったが、幸いにしてそれなりに効いたようだった。男が、砂浜にどさりと崩れ落ちる。
 二人はその隙に車まで走り抜けた。
 車に乗り込んで、右鷺はエンジンを急発進させた。

 ハンドルを握る右鷺うさぎの手に力が入る。オンボロのレンタカーがうなりをあげて走っていた。
「ごめんなさい・・・」
 運転席の横、助手席で左梨奈さりなが小さくこぼした。それだけ言って下を向いたまま動かない彼女を見て、右鷺は小さくため息をつく。
「いやまあ私のせいだし・・・出ちまったもんはしょうがねーよ。とにかくこのまま逃げるぞ」
 アクセルを踏み込む。このまま車を走らせれば、十分程度で人のいるところに行けるはずだった。通報さえできれば後は専門の駆除業者なり警察なりに任せることができる。
 いや、と右鷺は思い直した。
 人がいるところまで出る必要はない。よくよく考えれば自分もスマホは持っている。今すぐ連絡できるはずだ。右鷺はポケットに手を突っ込んで、左梨奈にそれを渡そうとした。
「ってうわああああ!!!!」
 しかしその時、フロントガラスの向こうに人影が見えた。先程の男だ。急ブレーキを踏む右鷺。ギュルギュルとタイヤが擦れる音が響き渡る。
 ついさっきまで砂浜に倒れ込んでいたはずなのに、あの状況から追いついて、さらには進行ルートに回り込んでくるという尋常ならざるスピードに、右鷺は驚きを隠せなかった。さっきとは別の個体かと一瞬思ったが、その可能性もだいぶ低い。今現存している男というのはつまり、三十年前にデカマラペスウイルスに罹患した男性の生き残りである。増幅された男性ホルモンにより人ならざる身体能力を発揮するが、人間と違い生殖する術を持たないことから、その数はもう今となっては限定的だ。一日に複数体見かけるなんていうケースはよっぽどのことがない限り起きない。
 事実、今目の前に現れた男は砂浜で見た通りのバーコードハゲだった。ライトに反射するそれがしっかりと右鷺の目を焼き尽くす頃には、男はもうハンドルを切っても避けられない位置まで来ていた。ブレーキを踏んだ車が、急激な慣性をつけて男に突っ込んでいく。衝突は避けられないと察した右鷺は、ぎゅっと目をつぶって次の衝撃に備えた。
 しかし、ぶつかった時の感触は、予想に反してニュルンっというものだった。もっとこうドンッとかグチャッとかグロテスクな音を想像していたのだが、実際はこんにゃくを木槌で思いっきり叩いたような感じに近い。そのまま車がスリップし、ガードレールにぶつかる。
 一瞬のブラックアウトの後、右鷺が意識を取り戻した。念のため自分の手足を動かしてみるが、特に異常は感じない。飛び出したエアバッグをよけて左梨奈の肩を叩く。
「おい、おい、大丈夫か・・・!?」
「う、うん・・・なんとか」
 なんとか身を捩って、二人は車から這い出した。幸いにして出火はしていないが、エンジンの部分から煙が上がっている。これ以上車に頼ることはできなさそうだった。
 男はというと、さすがに車に轢かれたダメージは大きかったらしく、地面にうつ伏せになったまま少しも動く様子はなかった。とはいっても、さっきの流木の一撃で無傷だったこともある。右鷺はその場を離れようと一歩足を踏み出した。が、次の瞬間鼻を強烈な異臭が襲い立ち止まってしまう。
「うっ、くさっ・・・・」
 先にその違和感を言葉にしたのは左梨奈だった。手で口鼻を覆い、苦悶の表情を浮かべる。それでもなんとか逃げようと二、三歩踏み出すが、耐えきれずその場にしゃがみ込んでしまった。なんというか、夏場の産業廃棄物処理場でゆで卵を百個置いて腐らせた後、そこに水槽いっぱいのカメムシを投げ込んで丁寧に混ぜ合わせたような匂いだった。湿った海水が加わってそれがまた酷いアクセントになっている。このときの彼女たちには知る由もないが、それはこの男の加齢臭というやつだった。
 それでもこの状況である。なんとか男から距離を取らなければならない。右鷺はハンカチを取り出すとそれを左梨奈にあてがってやり、ハンドサインでこの先にある防砂林を指さした。とりあえず姿をくらませられれば、助けを呼ぶ隙くらいは作れるはずだ。左梨奈も意図を察したのか、何度か首肯して右鷺の後をついていった。
 二人は防砂林に辿りつき、大きな木の陰に身を隠した。右鷺は倒れ込むようにして両手両膝をつくと、長らく止めていた呼吸をようやく再開する。ただし思いっきり吸い込むと臭気が襲ってきてしまうので、なるべくゆっくりと確実に血液の酸素を取り戻していった。
「と、とりあえず身は隠せたか・・・?」
「臭すぎて頭痛くなってきた・・・」
 ようやく息ができるようになったところで、二人が同時に言葉を発する。
 右鷺は木陰から男の方を伺った。倒れたまま、まだ動く様子はない。
 今のうちに助けを呼ばなければならない。右鷺はポケットからスマホを取り出した。
「コラコラ、さっきもこれ、注意したタヨ、ネ😅❗イケナイ子には、おじさん😎、ちょっとお仕置き😈しちゃおうカナ?😂😂🤔お仕置きって、言っても、エッチ🏩な、意味じゃないからネ😅💦❗❗😎😎、そんな下心、なんて一ミリも、ないヨ👌👌👌❗でも、カワイコチャンとの、ディナー🥂なら...ちょっと、楽しみカモ😎💕💕ナンチャッテ😂😂❗」
「うわあああああああああああああああああああああああっっっっっ!!!!!!!!!!!!!?????????????」
 男が、いきなり目の前にやってきていた。あまりのことに右鷺の心臓が止まりかける。さっきまで遠くで寝そべっていたはずの男が音もなく瞬時に現れるなんてどう考えても物理的におかしかったが、眼前にありありと突き出ている男の腹が、それが現実であることを主張している。まるでスマホを取り出すことがなにかのスイッチになっているかのようだった。
 右鷺は背を向けて逃げ出そうとするが、既に男は手を伸ばせば届く距離にまで来ている。走るまでもなく間合いを詰められてしまった。
「おっとっと❗おじさん😎😎を呼んでるナ〜?😂👀👂👂恥ずかしがり屋さん😅💦💦💦おじさん😎😎、カワイコチャンに呼ばれたら、ハッピーハッピーで飛んでくゼ〜💨❗❗さぁ、どんな話しましょうカ?🤔🤔ナンチャッテ😂😂😂❗でも、待ってたら、遅くなっちゃうヨ❗早速、美味しいディナー🍽🍷でもどうダヨ😎🤔🤔?ナンチャッテ😂😂😂😂❗」
 もうこうなるとどうしようもない。逃げる、助けを呼ぶ、応戦する。そのすべての選択肢に赤信号が灯っていた。このままここで男に八つ裂きにされて終わり。そんな最悪なイメージが頭の中をよぎって、右鷺は思わずしゃがみ込んだ。両手を頭で覆い、ただただ座り込むことしかできない。
「あれあれ?もしかして😎、疲れちゃったの😂カナ❗❗おじさん😎の時代はね、運動してる時には水💧なんて飲まなかったんだよ😮‼そう、息が切れても、汗💦が吹き出ても、飲むんじゃないっていう強い精神💪があったんだよね😉😅それに比べて、今の若い子達は…ネ😎🤔ちょっと息が上がっただけで、すぐに水💧を飲んでるよね😂😂それがおじさん😎から見ると、ちょっと甘えてる感じがするんだよね〜👎💦だからね、〇〇チャンも耐えてみる?ナンチャッテ😂😂❗❗たまには運動中に水💧を飲むのを我慢してみて、自分の限界を感じてみるのも大切だよ😉👍ナンチャッテ😂😂❗❗」
 男はのべつ幕なしに畳み掛ける。
 頭を抱えたまま座り込む右鷺。体を硬直させ、いつ襲いかかられるのかと恐怖におののいていたが、男はいつまでも喋り続けるだけで動こうとしない。
 一部始終を見ていた左梨奈が口を開いた。
「えと、危害を加える意志は・・・ないのかな?」
「そ、そんな訳ないだろ。男だぞ?」
 すぐに異議を唱えるが、実際男は何もしてこない。右鷺は顔を上げてちらりと顔を上げた。よく見ると体中油まみれでテカっている。それで車をぶつけたときのあの感触にようやく合点がいった。きっとこの油でスリップしたのだろう。
「でもなんか言葉っぽいこと喋ってるし・・・話したいだけ、とか・・・?」
 左梨奈が鼻をつまみながら言った。
 相当な早口のうえに、途中途中でノイズのようなものが混じるせいで全く理解できなかったが、確かに人の言葉だと思って聞けばそう捉えられないこともない。
「え、ええと・・どうも・・・」
 右鷺は恐る恐る男に話しかけてみる。
 すると男は、先程よりも更に饒舌に喋りだした。
「ほら見てこのロレックス🕰💎💎✨✨ダヨ。立派なんだから😉👍👍!さっきもスーパーカー🚗💨💨のエンジンがうるさくてさ😅💦💦、何度も手入れ🛠⚙してるんだケドね😂❗❗って、話題が脱線しちゃったダネ😅💦💦。そうそう、おじさん😎のビッグハウス🏠💰🏝、見てみたい?豪華なインテリアと、最高の景色が待ってるよ🌅🌅ナンチャッテ😂😂😂😂❗」
「あー・・・えー・・・」
「俺たちの頃はさ、年上の人から飲み🍻🍻🍻に誘われたら必ずいったヨ😅🍶🏃でも、今の若い子たちは、そんな必要ないともうケド、ネ😏👍💢 パラダイス🌈🏖️😂ナンチャッテ😂😂」
「えーと・・・」
「時間がないなんてのは言い訳🤨⏰🙄 時間はつくる💪もの👍👍💨💨若いからまだピンと来てないのかもしれないけどね😏👌⌛」
「あー・・・。あは、あはは・・・」
 適当に相槌をあわせる。コミュニケーションもへったくれもないが、気を良くしているのか男はその後も喋り続けている。
 なんだか少し哀れなような気もしてきたが、とにかくこれは好機だ。右鷺は左梨奈の方に向かって小さく言った。
「その・・・今のうちに人を呼んできてもらえるか?スマホに反応するっぽいから、なんとか人のいるところまでいって」
 男の喋りは更にスピードを増し、つばを飛ばしながら畳み掛ける。
「来週の🙋‍♂️三連休は🙋‍♂️外出禁止🙋‍♂️🙋‍♂️🙋‍♂️僕とデート💏デート❗💏デート💏😘動物園🦁❓水族館🐬❓映画📽️❓僕と一緒にいこうヨ😉😉😎👍」
 悪臭が放たれて、右鷺はまた立ちくらみを覚える。
「その、結構キツイから早めに頼む・・・!」
 左梨奈はこくこくと何度か首をふると、足早にその場を立ち去った。
 直接的な暴力がない分マシかと思ったが、これはこれで立派な攻撃だった。

 それから左梨奈さりなはもと来た道を戻り、駅がある方向へと走り始めた。数キロメートルの道のりを覚悟したが、幸運にも途中で通行中の車に出くわすことができ、助けは思ったよりも早く呼ぶことができた。すぐにイヴジェノミクスのボディーガードたちと合流し、右鷺うさぎの待っている現場に戻る。
 その間ほんの十数分の出来事だったが、左梨奈が現場に駆け戻ったとき、右鷺はもうだいぶ参っているようだった。顔は青白く、目も焦点が合っていない。その様子を見る限り意識があるのかも定かではなかったが、それでも男の話にはい、はい、と相槌を返す右鷺の姿は、さながら弁慶の仁王立ちといったところであった。
沙知代さちよさん!早く!早く!」
 左梨奈は耐えきれず、悲痛な叫び声をあげる。
 男駆除に関しての知識もきちんと持っている沙知代である。男の悪臭に命の危険を及ぼすような毒性はないことは知っていたが、あまりにも必死な左梨奈の手前、素早く対処する必要がある。はぁ、とため息を一つついてライフルを構えた。本来必要な安全確認の手順を飛ばして、例のホログラム装置を射出する。
 前回の男に見せたビルの屋上とは違い、今回映し出されたのは一般的な家庭のリビングだった。
「アレ?😅」
 夢中になって右鷺に話しかけていた男の注意が、ホログラム映像へと逸れる。テレビ、食卓、ソファ。誰もが知っているような、しかし現実には存在しない家。ただし、その中に一つ異彩を放つ存在が見える。エプロン姿にパンチパーマが特徴的な中年の女性だった。
「カアチャン!!???」
 男が驚き声をあげる。母ちゃん。さっきまでの意味不明な音の羅列とは違い、今度は人間の発音にかなり近いのを、その場にいた全員が理解した。
『アンタ、何やってんの!!!!こんなところで!!!!!』
 ホログラムの中年女性が男に向かって大声をあげる。機械音声だが紛れもない本物の迫力がある。
『またこんなところで油売って!!遊んでるヒマがあったら今すぐ働きな!!!』
 男は見るからに狼狽えているようだった。尻尾がついているわけではないが、もしあるのなら今はしぼんで丸まっているに違いなかった。実際、男のちんこは最初現れたよりだいぶ小さくなっているように思える。
 男は中年女性とは目を合わせず下を向いていたが、しばらくして一言ポツリと呟いた。
「お、俺だって頑張ってるし・・・」
『ハァ!!!!?????』
 そう言った瞬間、中年女性の目つきが変わった。
『文句あるんならね、もっと稼いできなさいよ!!!!!!これっぽちの収入で家庭回してる私の気にもなりな!!!』
 ものすごい剣幕で捲し立てていく。そのまま中年女性が恰幅のいい体で詰め寄ると、男はその場にストンと座り込んでしまった。中年女性の追撃はその後もとどまるところを知らず、ついに男は正座して話を聞くよりほかなくなった。
「・・・無力化完了です。あとは業者に任せましょう」
 沙知代が言い終わるやいなや、左梨奈が右鷺のもとに走り寄っていく。
「せんせい!せんせい!」
 男が座り込んだところで精根尽き果てたのか、右鷺も同じようなタイミングで倒れていた。左梨奈が肩を揺らす。そのまましつこく呼びかけて、右鷺はようやく目を覚ました。
「せんせい!大丈夫!?」
「あ、ああ・・・なんとか・・・・」
 返答するやいなや、左梨奈が右鷺を強く抱きしめる。その手は震えており、右鷺はそれを抑えるように軽く握った。
 それを後ろで見ていた沙知代が、オホンとわざとらしく咳払いをした。
「お嬢様、もういいでしょう。そろそろ帰りますよ。車を待たせてありますから」
 きっぱりとした口調の沙知代に、左梨奈が抗議する。
「沙知代さん!先生こんな状態なんだよ!?早く病院に連れて行ってあげないと!」
「・・・右鷺様のために救急車も呼んであります。彼らに任せればいいでしょう。さぁ」
 そう言って沙知代が手を伸ばす。
「やだっ!!!」
 それを左梨奈は全力で拒んだ。右鷺にしがみつき、子供のように大声をあげる。
「せんせい、もう私の恋人だもん!!!!き、きょう、キスだってしたもん!!!!私のファーストキス!!!!あげたもん!!!!」
「・・・・は?」
「・・・・は?」
 沙知代と右鷺が同時に声を上げる。それからすぐに沙知代の冷ややかな視線が飛んできたが、それを処理するよりも先に右鷺にある疑問が浮かんだ。
 ―――ファースト・・・キス?
 右鷺の記憶が正しいとすれば、それはあの小さい頃の押し入れのはずだった。確かに幼少期だからノーカンと言われればそれまでではあるが、少なくとも右鷺にとっては忘れられないほど鮮明な思い出だ。
 いや、そもそも。
 右鷺はぼんやりとした頭で考える。自分は左梨奈とは違い、正真正銘の庶民である。確かにイヴジェノミクスのお膝元であるこの街で育ったが、地元が一緒だっただけで大企業の令嬢と接点が持てるのだろうか。
 記憶に、ほんの少し綻びが生じる。ただ今はそれを繋ぎ合わせるすべはなく、胸元で泣きじゃくる左梨奈を眺めることしかできない。まだまだ確かめなければならないことがたくさんありそうだった。
(っていうかアタシ今、生まれて初めての恋人できた・・・?)
 疲れ切った頭でそんな風に考える。
 二人の夏は、まだもう少しだけ続きそうだった。

<完>

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