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ビッグディック・パンデミック(Ⅰ)

2050年。世界中でパンデミックが起きた。謎の流行り病により全ての男性は脳みそが小さくなり、そして、ちんこがでかくなった。男は人ではなく獣になった。
2060年。パンデミックを発端に、人類の生物化学が飛躍的に進歩した。謎の病を治すには至らなかったが、その研究過程で人類はIPS細胞を手に入れた。種の保存に男はもはや必要なく、世界の愛は本当のことだけになった。
2080年、これが今。人であることと女であることは同義になった。僅かに残る男たちは全て害獣であった。

『髪に芋けんぴ、ついてるわよ』
『う、わーーーーーーっ』

「うわーーーーっ!!!」
 白衣の女性が小さな叫び声を上げた。手にしたタブレット端末を握りしめ、肩をぶるぶると震わせる。顔は本当に湯気が出るのではないかというぐらい真っ赤になっていた。タブレットには歴史に残る傑作と言われる恋愛漫画が表示されていた。
 女性が辺りを見回す。ここは聖ナヘマ学園の保健室。見慣れた光景だった。放課後の保健室に来客はなかったが、自分が思ったより大きな声を上げてしまった気がして、何となく不安になる。女性は誰もいないことを確認してほっとため息をつくと、スワイプし漫画の次のページを表示させた。
 彼女は、皐月原右鷺さつきばらうさぎと言う。腰まで伸びた長いブロンドが特徴的で、白衣の下にはタイトなスカートスーツを着ている。ブルーのワイシャツは大きく開襟しており、一般的な学校の先生としては多少派手な格好といっていい。その風体は正真正銘のギャル、いやむしろ、ヤンキーと言ったほうがしっくりくる。
 その時、保健室の扉がノックされる。右鷺は慌ててタブレットをスリープモードにした。そのまま机の引き出しに放り込んで、襟を正す。軽く咳払いをした後、保健室の扉に向かって呼びかけた。
「ど、どうぞー」
 保健室の扉が開くと、そこには学校指定の制服に身を包んだ少女が立っていた。髪はハーフアップで、ピンクのメッシュが入っている。その特徴だけみれば右鷺と同じくギャルっぽい見た目といえるが、手足や目鼻立ちがスラッとしており、全体の印象としては不思議と上品で育ちの良さを感じさせる。
「せんせい、こんにちは。・・・今いい?」
「おう、左梨奈か」
 少女の名は鬼内左梨奈おにうちさりなと言った。左梨奈の目的はもちろん、怪我や体調不良の治療、ではなく、恋愛相談だった。
 右鷺は、この春に短大を卒業したばかりの新米だ。生徒と年齢が近い上に、もともと姉御肌なところがある。右鷺を慕って保健室を訪れる生徒は少なくなく、その結果恋愛相談を受けることもしばしばあった。そして、漫画に限らず映画、ドラマ、小説、リアリティーショーに至るまで、恋愛と名のつくものは何でも手を出してきた右鷺である。そこから得た膨大な経験をもとに、時には生徒をなだめすかし、一緒に怒り、そして泣きながら、様々なアドバイスを行っていた。右鷺の恋愛相談は生徒の間で話題となり、保健室はすっかり学園の新たな名所となっていた。
 右鷺は立ち上がり、左梨奈に席を促す。自分はインスタントコーヒーを淹れるために洗面台に移動した。
「で、どうなんだよ。その後は」
「・・・ううん。まだ全然気づいてくれない」
 左梨奈は右鷺の隣に立ち、そっと白衣の袖口をつまんだ。
「さりげないボディタッチ・・・こうかな?あってる?」
 上目遣いで覗き込む左梨奈。小さい口、鼻。大きな黒目が右鷺を捉える。瞳がぎゅっと動いて、目の中で光が一つ泳いでみせた。
「お、おお。完璧だな」
 演技とは思えないほどの真剣な眼差しに、右鷺は少したじろいだ。これは右鷺が左梨奈に授けた技で、アプローチをかけているのに全然気づいてくれないという左梨奈の想い人を意識させるためのものだった。
「しっかしそんなに露骨にアピールしてもダメなのかよ・・・どうなってんだソイツ」
 さっと左梨奈から離れ、頭をかく右鷺。そこまでして無反応となると、さらなる対策が必要だった。こんなに可憐で可愛い子に言い寄られてなびかないやつがいるのかと心底疑問に思ったが、話を聞く限り相当な朴念仁らしい。
「よし、じゃあまたちょっと考えるか・・・。ん?どうした?座れよ」
「・・・うん」
 棒立ちになっている左梨奈に、右鷺は改めて椅子をすすめた。
 そう、右鷺の恋愛相談は生徒に大人気で、実際アドバイスはとても的を射ているものが多かった。
 ただ一つおかしなところがあるとすれば、右鷺自身には恋愛経験が全くないということだった。

「はーーっ!!??なんだよそれ!?信じらんねぇ!!今すぐそいつぶん殴ってやりたいぜ!」
 右鷺うさぎが息巻いて、自分のデスクを叩いた。空になったコーヒーカップが揺れる。
 今まで左梨奈さりなには、色々なアプローチを授けてきた。秘密を共有する、とにかく褒めてあげる、逆に聞き役に回る、恋人欲しいアピールする・・・とにかく相手に意識させるよう、思いつくアイディアは全部与えたし、実際それを左梨奈は実践していた。しかしそのどれもが空振りに終わってしまう様を聞いて、右鷺はさすがにむかっ腹が立っていた。彼女がどれだけ真剣にその人を想っているか知っているからこそ、その気持はひとしおだった。
「・・・うん、せんせい。ありがとう。・・・でもね、私、その人のそういうところまで含めて好きなんだと思う」
 左梨奈が少し困ったように答える。
 そのけなげな言葉に、右鷺はほとんど泣きたいような気持ちになる。
「しかしなあ・・・。そこまで鈍感野郎となると、もうホント押し倒すぐらいしか気づかせる方法ないかもな」
 右鷺が冗談めかしていった。
「・・・そうかな?本当にそう思う?先生」
「んー、まぁ実際なあ。やれることもう結構やったぜ」
 ふと壁時計に目をやる。左梨奈が保健室に来てから、気づけば数時間が経過していた。完全下校時刻も過ぎてしまっている。いい加減左梨奈を家に帰さなければならない。
「さて」
 右鷺がそう言って立ち上がる。
 そろそろ帰ろう、そう声をかけようとしたが、それを察した左梨奈が遮るように言った。
「先生」
 先手を取られ、言葉に詰まる右鷺。左梨奈はぎゅっと握りこぶしを作ると、勢いよく立ち上がった。パイプ椅子が後ろの壁にぶつかって、ガンッという音がする。
「ど、どうしたんだよ。急に・・・」
 左梨奈は何も言わず、二、三歩右鷺に歩み寄った。
 この聖ナヘマ学園は、都心から電車で三時間ほどの、周りを山に囲まれた盆地に立っている。そのせいもあって、陽が傾くと校舎はだいぶ暗かった。
 逆光もあいまって、左梨奈の表情を伺うことができない。
「先生。私今日、帰りたくない・・・」
 かすれた声で左梨奈がそういった。声色はもうほとんど泣いているといってよく、どれだけの勇気をふり絞ったのか窺い知ることができた。
 顔を上げる左梨奈。すがるような視線が右鷺を突き刺す。
「な、何だよ。家族と喧嘩でもしたのか?」
 相変わらずの右鷺に、左梨奈は負けじと言葉を続ける。
「ちがう。だっていま、二人きりだから。・・・ねぇ、こうするしかないんだよね。先生が言ったんだよ?」
 左梨奈が詰め寄る。それと同じ歩幅で右鷺が後ずさっていく。
「お、おい・・・」
「ねぇ、私の好きな人、誰だと思う?本当にわからない?」
 ついに右鷺は逃げ場を失って、保健室のベッドにぶち当たった。前進をやめない左梨奈の体が迫ってきて、右鷺の上半身がベッドの上で折れる。逃さないとばかりに、左梨奈は自分の腰と右鷺の腰を密着させた。
 ベッドの上で両手をついて仰け反る右鷺。左梨奈がそれに覆いかぶさるようにして言った。
「せんせいの、いじわる」
 柔らかい熱が右鷺の上半身を包む。左梨奈はなんとか右鷺の視界を独占しようと、顔を眼前にまで寄せていた。
 焦る右鷺。あの「嫌な予感」がよぎり、思わず目をぎゅっとつぶった。

(お、おい・・・これ、やばい。この感じ、まさか。このままじゃ・・・・)
(このままじゃ・・・『男』がやってきちまう!!!!!)

 男。
 三十年前に人類の座を追われた害獣の名前。今でも報告例はあるものの、普通に生活していれば見かけることはあまりない。
 ないはず、なのだが。
 右鷺にはおかしな体質があった。昔から「ときめく」と男が寄ってきてしまうのである。
 小学生のとき。好きな子の家に遊びに行った。二人して押入れで、親に隠れてキスをした。ほんの好奇心だった。その日男が現れて、家が燃えた。その子は転校してしまった。
 中学生のとき。部活の先輩に憧れた。やっとの思いで告白して、デートの約束をとりつけた。初めて出かけた街。先輩と手を繋いだ。その瞬間は幸せだった。けれども街に男が現れて、大騒ぎになった。先輩はそのせいで怪我をした。
 高校生のとき。通学電車が一緒の、名も知らない他校の生徒だった。毎朝顔を合わせるうちに、少しずつ打ち解けるようになった。ある日手紙をもらった。あなたを好きになりました。明日会うときに、答えを聞かせてください。そう書いてあった。しかし翌朝右鷺が駅にたどり着いた瞬間、男が出た。駅は無茶苦茶に破壊され、その後二人が会うことはなかった。
 右鷺自身、なぜこんなことが起きるのかわからなかった。偶然かもしれないし、何か理由があるのかもしれない。けれどもうどちらでもよかった。とにかくそういうことが起きるので、右鷺は自らの恋愛感情に蓋をするようになっていた。恋愛に興味はあってもそれを遠巻きに眺めるだけだったのは、それが理由だった。
 ずっとずっとそうしてきた。この瞬間もできるはずだった。

 右鷺は目をうっすらと開ける。耳まで上気した左梨奈の顔が飛び込んでくる。瞳は潤んで、真剣そのものだった。
 その時、右鷺の脳内で唐突に幼いときの記憶がフラッシュバックする。
 生まれて初めてキスをした、あの押入れ。真っ暗な闇の中で探り当てた、互いの感触。湿気。そして、ついばむような口づけ。その後に残る柔らかい感触。熱い吐息。決壊する心臓。流されそうになって、すがりつくように抱きしめたあの子の華奢な体。
 記憶の中の押し入れが徐々に開いていく。光が差し込んで、女の子の顔が徐々に明るみに出る。
 女の子の顔は、そのまま目の前の左梨奈に重なった。

「・・・さりな・・・ちゃん・・・?」
「・・・!!!!」
 顔をぱぁっと明るくさせる左梨奈。潤んだ瞳をより一層輝かせる。
「そうだよ!左梨奈だよ!!」
 左梨奈はそのまま右鷺のことを強く抱きしめ、胸に顔を埋めた。
「やっと気づいてくれた!嬉しい・・・」
 右鷺は言葉を失う。ショートした脳みそで状況を整理する。
(もしかして、私のこと、あれからずっと?)
(こんなに可愛くなって)
(あれ、これもしかして、運命とか、そういう)

 きゅーん。

 きゅん?

 あ、

 これアタシ、やっちゃったかも。

 ドンッ。
 破裂音が、右鷺の意識の奥で鳴った。
 よく聞くと破裂音ではない。もう一度。
 ドンッ!
 意識をかき集めて耳を澄ます。音が鮮明になっていく。ここで右鷺は、ようやくこれが保健室の窓を叩く音だと理解した。
 ドンッ!!
 窓に目をやる。そこには右鷺が一番見たくない光景があった。
 ―――男だ。
 窓に顔を押し付けて、部屋の中を伺っている。ツンツンに逆立った金髪をしており、顔がしっかりと見て取れるが、その目の色からかつて人間と同種であった痕跡は認められない。
 背丈は右鷺と大して変わらないが、手足が細く、そして、頭が異様に小さい。それでも全体として「大きい」という印象を受けるのは、三本足―――正確には二本の足と一本の馬鹿みたいに長いちんこ―――のせいだった。
 それが窓に張り付いて、腰を打ち付けている。窓にはヒビが入り、入ってこられるのは時間の問題のようだった。
「アァァァァ!!!!!!畜生!!!!!!!」
 右鷺は大声で叫んだ。また、やってしまった。後悔の念が押し寄せるが、今それに構っている余裕はない。どん底まで落ちた脳のトルクを最大限まで引き上げて、自分がやるべきことをはじき出した。
 一番に優先すべきは、左梨奈の安全だ。この子をなんとしてでも守らなければならない。
「逃げるぞ!!」
 右鷺は左梨奈の手を取る。思い切り引っ張って、火が付いたように保健室から飛び出した。
 それと入れ替わるように、保健室にガラスが飛散する。
「ドコスミッ!!!???ラインヤッテルゥゥゥゥゥッゥ!!!!!!!!!!!!!!????」
 校舎に男の叫び声が響き渡った。人間の言葉のような気もするし、ただの獣の叫び声のようにも聞こえる。
 右鷺はそれを聞きながら、3階の職員倉庫に対男用の装備があることを思い出し、階段を駆け上がった。
 陽は沈み、聖ナヘマ学園に夜の帳が下りていた。

 職員倉庫の扉が開き、右鷺うさぎ左梨奈さりなが駆け込んでくる。人感センサーが反応し、無人の倉庫が明るくなった。
 途切れ途切れの呼吸を飲み込んで、ようやく左梨奈が言葉を吐き出した。
「あ、あれ、おとこ・・・!?こんなに堂々と人を襲うなんて・・・!?」
 左梨奈の疑問はもっともなものだった。
 三十年前、世界中でデカマラペスウイルスの大流行があった。男のちんこがでかくなり、脳みそが小さくなるという人類史始まって以来の奇病。男は理性を失い、人ではなく獣に成り下がった。しかして今の女と男の関係は、かつての人間の熊のようなものだ。数十メートル先で男が目撃されることはあっても、ここまで明確に人間を襲うケースは珍しい。
 ちなみに、この時代の男が女を襲うという表現に、性的な意味合いは含まれない。男と女は遺伝子からして全く違う生き物なのだから、仮に交配したとしても子をなさないのである。だから男が女をレイプするというのは、それこそ熊が人間に欲情するようなおかしさがある。害獣に成り下がった今の男でもそれくらいのことはわきまえていた。
「・・・・。」
 右鷺は左梨奈の疑問には答えず、奥の箱に向かう。お目当ては対男用の装備だ。今となっては無用の長物になりつつあるが、かつてはもっと男の数が多く被害が激しかった。その時代の名残で、今も学校には設置が義務付けられている。
 箱の前に立ち、網膜認証を開始する。厳重なセキュリティチェックの後、中からリボルバー式の拳銃が一丁出てきた。
「左梨奈!アタシの後ろに!」
 こくりと頷いて、左梨奈は右鷺の足元にしゃがんだ。この状況下でもパニックにはなっていないらしい。右鷺は一安心して、手元の拳銃を確認した。
 チャンバー、シリンダー、撃鉄、異常はない。ダブルアクション方式。スイングアウト。ええと、装填の方法は?思い出せ。大丈夫、教育研修で男の撃退訓練はしっかりやった。右鷺はゆっくりと、しかし確実に弾丸を込めていく。
 姿勢を作って、今しがた入ってきた扉に銃を向けると、ちょうどその射線上に男が現れた。
「ラインッ!!!ヤッテルゥゥゥゥ?????????」
 男が咆哮し、二人のいる方に向かってくる。
 腰をカクカクさせながら。
 ―――きもっ。
 右鷺は思わず心の中で呟いた。そしてお構いなしに眉間に銃弾を打ち込む。轟音がして、男が仰け反る。
 少しの間動きが止まったが、男はまた何事もなかったかのように姿勢を戻した。
「キミカワイイネエエェェェェ!!!」
「こいつマジか・・・!?」
 右鷺はもう一度姿勢を作って、続けざまに弾倉の全ての弾を撃ち込んだ。グゥ、という声と共に男がうずくまる。流石に効いたようだったが、まだ立ち上がる余力はありそうだった。
 この時点で、この男に拳銃は効果が薄いことは明らかだった。右鷺の思考が高速で回る。が、有効な手立てが見つからない。そうしている間にも男は立ち上がろうとしている。
 とにかく、この場を離れる必要があった。もう一度左梨奈の手を取る右鷺。男の横を抜け、職員倉庫から出ていこうとする。しかし、出たところでぬめっとした何かを踏んづけて派手に転んでしまった。左脚のストッキングが破け、出血する。転んだ勢いで履いていたスリッパも飛んでいった。
「―――っつ」
 足元を確認すると、透明でネバネバした液体が床にこびりついている。男のガマン汁だった。巨大化したちんこを床に擦りつけながら歩いているので、男の通ってきた跡にはよく垂れているのである。
「先生!?大丈夫!!!!??」
 左梨奈が心配そうに声をかける。文句の一つでも言ってやりたかったが、それどころではない。すぐさま立ち上がって廊下を駆け出した。
 程なくして、職員倉庫から男が顔を出す。
「ッテカイマカラアエルウウウウウゥゥッ!!!!??????」
 右鷺たちの逃げていった方向に大声を放ち、男はまた前進を開始する。相変わらずサンバのような動きで、といえばまだ聞こえはいいが、実際はもっと下品な腰つきで。
 廊下を駆ける右鷺。男の叫び声から察するに、まだ少し距離はあるようだ。このまま振り切ってどこかに逃げよう。そう考えた矢先、腕を引いていた左梨奈がピタリと止まった。
 左梨奈は立ち止まってスマホを操作している。
「お、おいっ!こんな時に何やってるんだよ!?」
 予想外の行動に、思わず右鷺は大声を出してしまう。必死に呼びかけるが、左梨奈はスマホにかじりついたまま動こうとしない。
「ラインヤッッテルウウウウゥゥゥゥゥウ!!!!!?????」
 それを見た男が、地面を強く蹴り出す。状況的にはスマホに強く反応したようだ。腰振り歩き(?)をやめた男は素早く、すごいスピードでこちらに向かってきていた。
「うわあああっ!!!??」
 右鷺は慌てて左梨奈の手を引っ張り、そのまま近くにあった教室に滑り込んだ。
 教卓を先頭に、綺麗に並んだ机と椅子。せめてどこか隠れられるところはないかと目を凝らすが、何もない。男はすぐに追いつき、悠然と教室の入り口に立った。
「キミカワイイネェエエエ......」
 右鷺は男を睨みつけ、弾倉が空になったリボルバーを突きつける。しかし、男は意に介さず二人に歩み寄ってくる。
 脅しが効く相手な訳はなかった。右鷺は舌打ちし、ポケットの重みを確認する。銃弾は持っている。よかった。持ってきて。でも、この至近距離でのリロードはもう間に合わない。そもそも隙を見て再装填できたとして、撃ち込んで、それでどれぐらいの効果があるんだ?
 はぁっ、はぁっ、はぁっ。
 自分の呼吸音が鮮明に聞こえる。
 脳に押し込まれた血液が、思考をどんどん鋭利なものにしていく。
 夜の光に舞う埃、黒板に残った消し跡、窓際で揺れるカーテン、教室の外で灯る消火栓ボックスの赤い光。
 電気信号が脳を駆け巡っていく。あらゆる可能性が検討されては消えていく。
 この状況ではもう助からない。
 しかしシナプスは、そんなどうしようもない結論を高速で運んできただけだった。
 スローモーションになっていく視界。男が掴みかかってくるのが、ゆっくりと見える。
 観念して目を閉じる。
 ごめん、左梨奈。アタシのせいでこんなことになった。ときめくといつもこうなんだ。
 あーあ。死ぬまでに一度でいいから本当の恋をしてみたかった。

 そのまま右鷺の視界は真っ白になった。死後の世界にでもいったか、そんなことを考えたが、現実はそうではないようだった。ババババババ、という空気を切り裂く強烈な音が耳を貫く。
 音に導かれて外を見ると、教室の外にヘリコプターが飛んでおり、そのライトが教室を照射していた。
 ヘリコプターにはライフルのような長筒を構えた黒服が見える。パンッという音がして、ライフルが火を吹く。しかし実際に発射されたのは銃弾ではなく野球ボールほどの小型の機械だった。それが教室の窓を突き破り、男の足元に転がる。
「!!!!!!!!!!?????????????」
 小型の機械は、男の周囲にホログラム映像を立ち上げた。シュチュエーションは、ビル街の屋上らしい。
「ドコスミッ!!!!!!!!!!!!!!!!???????????」
 なんてことのないホログラムだったが、それでも男をたじろがせるには十分だった。男は手を振り回すが当然何も起こらず、そのまま映像の再生が始まった。
 一人称の視点。映像の主が一歩一歩と歩みを進める。徐々に助走がついて、屋上の障害物を乗り越え始めた。身軽な身のこなしで、高い壁や複雑に絡み合ったパイプの隙間を次々に抜けていく。どうやらパルクールをしているようだった。
 主観はビルの端へと差し掛かった。隣のビルとの距離を測っている。飛び移るつもりらしい。
 ビルの谷間を見下ろす。下で道行く人がかろうじて点に見える程度の大きさで、非常に高いことがわかる。主観の人物はそれをためらうことなく、跳んだ。
「タマヒュンンンッッッ‼︎‼︎」
 映像の主が跳んだ瞬間、男は泡を吹いて気絶してしまった。その場に倒れ込んで、あっけなく無力化される。高いところから飛び降りる程度の映像でなぜあんなにも頑強だった男が倒れるのか、右鷺は見当もつかなかったが、とにかく男には効果てきめんらしい。
 立ちすくむ右鷺。男は相変わらず、陸に打ち上げられた魚のように体を痙攣させている。
 右鷺の背後に立っていた左梨奈が、明るい声で言った。
「あっ、せんせい、ごめんね。さっき家の人呼んだんだけど、もう迎えに来たみたい。帰らなきゃ」
 右鷺は左梨奈の方を見た。まるでさっきまでの出来事などなかったかのような素振りで笑う左梨奈に、右鷺はうっすらと恐怖心を覚えた。
「ねぇせんせい。今度デート行こうよ」
「・・・は?」
 思いもよらない言葉に、右鷺は声を上げた。もう頭の中がしっちゃかめっちゃかだった。さっきまでフル回転していた脳のリソースを全て現状把握に移し替えるが、思考はつるつると上滑りするだけで何もつかめない。
「おまえ・・・何言ってるんだよ・・・?デート?その前に聞きたいことが・・・」
「えー、せいせい。いいの?」
 左梨奈は教卓に両肘をついた。悪戯っぽい笑みを浮かべ、右鷺を覗き込む。
「先生、『ときめく』と男を呼んじゃうんでしょ。これ広めたら、どうなっちゃうのかな?学校クビになっちゃうかも」
「――――――!!!!!!!!!」

 右鷺の顔から急激に血の気が引いた。その秘密は、誰にも話したことはないはずだった。親にも、親友にも、ネットにすら、一言も漏らしたことはない。そもそもただの偶然である可能性すら否定できないのに、左梨奈がそれを知っている理由は何一つなかった。
「お嬢様!!!!ご無事ですか!!!!!???」
 その時、教室に数人の黒服がなだれ込んできた。右鷺には目もくれず、左梨奈のもとに駆け寄る。皆一様にサングラスをかけており表情は見えないが、その内のリーダー格と思われる女性が怒涛の勢いで口火を切った。
「ああもう!!!だから言ったじゃないですか!もうこんな危ないことはお止めください!お願いですから!お嬢様!!!??聞いてます!!!!???ちゃんとこっち見て!!そうやっていっつも都合の悪いこと無視するんですから!!!大体・・・」
 女性は、そのままくどくどと説教を始める。
 呆然とする右鷺であったが、黒服たちの付けているピンバッジには心当たりがあった。イヴジェノミクス、誰もが知っているバイオ企業のロゴだ。ほんの二十数年前に興った会社だが、現社長の圧倒的な技術力と神業的な経営手腕を武器に、一代で日本屈指と呼ばれる座についた大企業である。
 黒服の女性はまだ説教を続けていたが、左梨奈はそれに取り合うことなく、まっすぐに右鷺を見つめている。
 完全に沈黙する右鷺。左梨奈はそれを見て満足そうに微笑んだ。
「もうすぐ夏休みだもん。私といっぱいデートしてね」
 そう言うと左梨奈は少し恥ずかしそうな表情を見せて、教室の扉へ駆けていく。
「いこ」
 そこでようやく黒服達に呼びかけた。リーダー格の女性が大きなため息をつき、それに続く。去り際に右鷺を一瞥したが、特に何も言うわけでもなかった。
「じゃあ!とりあえずこんどの日曜!約束ねーーー!!!」
 そう言い残して、左梨奈が廊下を走り去っていく。
 右鷺はその場にふにゃりと倒れ込んだ。訳のわからないことが多すぎる。
 もうクタクタだ。汗で濡れたシャツが肌にべっとりと吸い付いている。擦りむいた左脚の痛みが、今になってせり上がってきた。

(Ⅱ:https://note.com/_gonsuke/n/nfac4bcf2065f

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