見出し画像

号泣した朝。

今朝の体温 35.1 

ちょっと前、リフォーム教室に通っていた時のこと。
その日は家を出るのがギリギリになってしまって、ぜんぜん時間的な余裕がなかった。

あわただしい時間の中で、ラジオから聞こえてきた往年のヒット曲が私を感傷的にした。

それは「SACHIKO」。

幸せを数えたら片手にさえ余る
不幸せ数えたら両手でも足りない

という歌詞で始まる昭和の不幸ソングで、今聞いても「まるで私のことのよう」と思う。
でも幸子はけっこう幸せだよね。
誰だか知らないけど、傍らで

「幸子、思い通りに生きてごらん 
それが悲しい恋でもいい 
笑い方も忘れた時は思い出すまでそばにいるよ」

と言ってくれる人がいるのだ。
幸子は自分がわりと幸せだということに気づいていないだけかもしれない。
なんだよ、じゃあ不幸なのは私だけじゃん、と別の意味で泣けてきた。

次に流れて来たのが財津和夫の「Wake up」。
嫁ぐ朝を歌った爽やかな一曲で、私は「クサい」と思いながらもけっこう好ましく思っていた。
この曲の一番すてきな歌詞は、

ずっとあなたを守ってきた
その愛にはもう戻れない

ってところ。財津和夫のスカした声がメロディラインにめっちゃ合ってるんですよね。さすが自作自演。
「なんでだよ、結婚するだけなんだからずっと愛してていいじゃん!」って思っちゃうよね。

昔と今では結婚観が違う。当時は、嫁いだ娘は他家の人という風潮が強かった。結婚したらホイホイ実家に足を踏み入れることはできなかった。そういうふうになんとなく教育されていたしね。
そんな土壌から「瀬戸の花嫁」「秋桜」「妹」みたいな名曲が生まれたわけ。
特に「秋桜」の悲壮さは、今の若い方にはなかなか伝わりづらいのではないかと思う。まるで死を前にしたような母と娘の覚悟の景色を、大げさに感じる人もいるのではなかろうか。逆に、若い世代は何かにつけて大げさだから(偏見ですかね)、案外違和感を覚えないのかな?「秋桜」じたい知らないかも。
今、結婚した女性が実家に帰れない事情があるとしたら、たいていは「仕事で忙しい」とか、そういう自分の問題だよね。「嫁いだ身なのだから」なんて思う人はごくごく少数派だろう。
昔はそういうんじゃなくて、専業主婦でもヒマでも、そうそう実家には帰れないという社会的なコンセンサスがあった。だから夫婦喧嘩の時に妻の「実家に帰らせていただきます」という言葉が効いたのだ。
今も社会的ヒエラルキーの高い家ではそうかもしれないけど、一般大衆はほとんど気にしてないでしょう。結婚式の次の日に実家に足を踏み入れても問題なし。式の後に実家に荷物を取りに行っても何らおかしくない。

まあともかく「Wake up」のほうは母というより父との別れという感じ。
父親が男手1つで育てた娘が嫁に行ってしまう。そういう印象で私は聞いていた。
それは、母と子とは少し違う距離感を覚えるからだ。嫁ぐ娘は、もう子供ではなく1人の女性。だから、子供のころのような接し方はできない、みたいな。
ぼろぼろ泣けた私の耳に、次に聞こえて来たのは、永井竜雲の「標なき旅」。
これは本当に名曲で、今でもカラオケで歌うほど。
青春の痛みや闇雲でフレッシュな憧憬を歌ったもので、スケール感を伴ったメロウな旋律は今でも素晴らしいと思う。

可能性に満ち溢れているが故の迷い。私もかつてそんな中にいたのだ。
こんな道を歩くことになるとは思いもせずに。
私はいったい何をしてきたのか。

駐車場に車を停めて、私は泣きながら荷物をまとめた。
これ以上聞いたらリフォームどころではなくなるので、途中でラジオを切って車を降りた。

初めて聞いた番組で、タイトルさえ覚えていない。
なのに私の心のプレイリストをそのまま再生されたようだった。この選曲をした人とは気が合いそう。

でもまた聞きたいとは思わない。
初対面で盛り上がって、すごく楽しかったけど、自分のこと話し過ぎちゃった。知りすぎちゃった。もう二度と会いたくない、みたいな。
わからないよね。わからなくていいの。





つらい毎日の記録