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掌編小説「葬儀」

 

 その日、私はよく知らない人の葬儀に居た。
 父曰く、それは私の父の弟の妻の母のお葬式らしかった。私とその人との関係性にはどうも名前がつかないみたいで、こうややこしい表現をするほかなく、それはもう他人というほうが正しいんじゃないかしらと思ってしまうが、私の家族と父の弟の家族は仲が良いので、特別に、私まで参列者として認めてもらえたようだった。

 親族が集まる控えの部屋は、少々広めの座敷だった。大人たちはせわしく動き回り、お悔み申し上げ合い、参列者らをもてなしていた。私は分別のある高校生らしい佇まいすべく、参列者らにすこぶる丁寧なお辞儀のお出迎えし、大きくなったねえ、学校はどうかな、などの質問に愛想よくお返事していた。それからしばらくすると、控室には私と少女の二人きりしかいなくなった。その少女は、これまた父曰く、私の父の弟の妻の妹の子ども、らしかった。今年10歳になるらしい。

 少女は、私のほかに見ている人もいないのに、足を崩したり肘をついたりせず、落ち着き払った様子で、礼儀正しく座椅子に座り、ぼんやりと壁のほうを眺めていた。
 私はどうしようかしらと思ったけれど、二人しかいない空間で、お互いに初対面の二人が二人して沈黙を続けるのは少々気まずいように思われたので、こちらから声をかけてみることにした。私は微笑みを作って少女に近づき、丁寧な発声で細心の注意はらって「こんにちは」と言ってみた。優しそうなお兄さんだと思ってもらいたかった。

 少女と目が合った。目が合った瞬間、私は少し身じろぎした。彼女の目は私への親愛をほんの僅かもにじませなかった。少女は、大きく黒く光のない彫刻のような美しい目で、私の目をじっと見つめた。その目からは何の感情も読み取れなかった。逆に、見透かされた、と思った。両肩に力が入るのを自覚した。私は恥ずかしかった。逃げ出したくなるほどだった。しかし、逃げ出すわけにいかないので、やけになってはにかんだ。彼女はそれを見て、少し警戒心を解いたらしかった。眉間から力を抜き、私に「こんにちは」と返事した。その声は高貴だった。幼さの残る声質の、すぐに空気に溶けて消えてしまうか細さの、その奥底に、気高さの見え隠れするような声だった。

 少女の名は、佳純といった。

 私と佳純はいくらか会話のやり取りをして、お互いのプロフィールを開示し合ったのだけれど、その間、佳純はわたしの顔をずっと見ていた。俯瞰するような目でありながら、探り出そうとするような目でもあった。緊張した様子で、用心深そうに、私の顔の微細な動きを目の奥でとらえて見逃すまいとし、会話しながらも、会話の内容とは別な何かを静かに考え、懸命に分析しているように見えた。そういう気配があった。それは、人が人を警戒し、本性を見抜こうとするときの気配だ。私が信頼に値する人間か、危険な人物でないか。私の人間性。それを掴もうとしているようだった。

 さて、私は、佳純に危害を加える人間ではなさそうだと判断されたらしかった。ようやく、佳純が私に笑顔をむけてくれた。ひたすらに奥ゆかしい笑みだった。彼女は、困ったようなそぶりで、伏し目がちに微笑んで、私はそれにすっかり惹かれてしまった。

 大人たちが戻ってきた。もうすぐ式がはじまるようだった。
 和尚さんが念仏唱えているのを聞きながら、故人との思い出のない私は、ぼんやり、私のひいばあちゃんのお葬式のことを思い出していた。私はまだ小学4年生だった。私の優しく、かしこいひいばあちゃん。今思えば、もっとたくさん話をすべきだったのだ。葬儀の終わり、ひいばあちゃんの顔に触れた。冷たくて、人間の温もりのない肌、それは死んでしまった人の感触だった。抜け殻などという表現はあまりに奇妙だ。たしかに居るのに、もう思考せず、動かず、話さないその人、その人の足元に私が昔々に牛乳パックでつくってあげた鉛筆立て、使い古されておかれていて、涙が零れ落ち、寂しく、もうすべてが届かないことに茫然とした。母がひいばあちゃんの頬さすり、ばあちゃん、と掠れた声で語り掛ける、それを見ていると、ああ、いつか私の母も死んでしまう、私の愛する人、いつかみな死ぬのだとわかった。ひいばあちゃんはたくさんの手紙と花々に囲まれていた。棺の周りで、どの人も泣いていて、ひいばあちゃんは本当に愛されていたんだなと思い、私も涙流しながら、すこしほっとした。ひいばあちゃんは無事天国に行くだろうと思った。

 しかし、それから、ひいばあちゃんは、本当にいなくなってしまった。
 その手順はあまりにも無機質だった。棺が炉に入り、扉が閉まったときの喪失。
 わたしはあまりの恐怖に無言で泣いた。人間の最後が、こんなにも惨いことを知らなかった。

 佳純は、葬儀で泣かなかった。火葬のときも、泣かなかった。
 けれど、みんなで火葬場を出て、送迎用のバスに乗り込み、私のとなりに座ったとたん、ぽろぽろと泣いた。佳純は涙のあふれる目で、力なく私を見つめた。私には、佳純のこと、ものすごくかわいく思われて、そのままにしておけず、そっと頭を撫でた。佳純は、撫でられるがまま、静かに泣いていた。私は幸せだった。

 狂気だった。故人を焼く間、みんなおいしいご飯を食べ、酒を飲み、どの人も笑っていた。でも、それは当たり前のことのようにも思われた。誰も咎めるべきではなかった。その狂気は許されるべきだ。いや、大体、狂気でないことがあろうか。人の世は狂っている。生まれることも、死ぬことも、生きていることもあまりにマッドでおぞましく、できれば直視したくない。そうやって見ないふりし続けてるうちに、狂気は日常として順応し、誰もかれも麻痺しているだけだ。それに、人の世において、そんなことは取り立てて言うべきでない瑣末なことだろう。

 目を腫らした佳純は、おいしそうにエビフライをほおばっていた。私の顔には微笑みが浮かんだ。
 死ぬのは恐ろしい。恐ろしいので見ないふり。見る必要性にかられる時まで、忘れておればいいじゃないか。
 私は佳純の口元をハンカチで拭ってやった。佳純は、信頼しきった様子で口を突き出した。いつかキスしてやろうと思った。



(おわり)


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