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はじめての両想いはビターチョコの味がした(後編)

バレンタインが終わるまでに書きたかった後編ですが、2月はかくかくしかじかで疲弊していて書けませんでした。仕掛中のタスクは少しでも減らしたいので、重い腰を上げて綴ろうと思います。まだ前編を読んでいない方は、以下リンクからどうぞ。

こうして、桜が咲く頃にわたしにも春がきた。小学校は不登校で、中学校でもクラスメイトから陰口を叩かれパシられていたわたしを受け入れてくれる人が現れた。これだけで胸がいっぱいだった。

だが、単に「うれしい!しあわせ!」と浮かれていられたのも、ほんの数時間だけだった。ひとりで帰り道を歩きながら、(あ、お母さんにバレないように気をつけないと…)と、不安な気持ちが押し寄せてきた。

…そう、わたしは自分の母親の存在に怯えていた。

いつか別の機会に書こうと思うが、母は度を越した過保護・過干渉に加えて、自分の感情をコントロールできない人だった。それゆえに、娘が自分の意に反する行動に出たり、異を唱えようものなら、「親に対して刃向かうつもり?!」と怒鳴り散らし、時には暴力も辞さなかった。さらに、喧嘩がヒートアップすると、家を飛び出し夜まで帰ってこないなど、家庭放棄もしばしばあった。

そんな母からは、「塾は勉強する場所であって、友達を作る場所じゃない。ただでさえ私立の中高一貫で高い学費払ってるのに、さらに塾にも通わせているのだから、学年で10番以内の成績を取らないと許さない」と、日々脅されていた。そんな状況下で、塾で彼氏が出来たなんて口が裂けても言えなかった。

よって、「母に彼氏の存在がバレる=人生が終わる」と思い込んでいたわたしは、彼の存在がバレないようにと必死に工作した。

まずは、ガラケー。彼の登録名を、架空の女の子の名前に変更した。うっかりガラケーの小窓に男性の名前が表示されようものなら、厳しく追及されかねないからだ。
つぎに、会う場所。地元で会うのは塾だけにしてほしいとお願いをし、デートは専ら池袋が多かった。彼もわたしも高校の通学路の途中で、定期圏内だったのも好都合だった。
あとは、会う頻度。母にカモフラージュできるように、放課後の週2回に限定していた。(彼が土日は部活で潰れることも多かったのもあるが)

このように、一見すると制約だらけの恋愛だったが、それでも幸せだった。マクドナルドでポテトのLサイズをシェアしながら、2時間も3時間も他愛もない話をするだけで楽しかった。
また、月に1回ぐらいはプリクラを撮ったり、カラオケにも行った。彼はバンドマンだったこともあり、歌がめちゃくちゃ上手かった。低音はよく響くし、高音もよく伸びる歌声に毎回聞き惚れていた。ラルクのCaress of Venusを歌ってくれたときは、感無量だった。

また、彼の存在によって、「今日の放課後はデートだ!がんばろう!」と、毎日に張り合いが生まれた。クラスメイトから後ろ指をさされても、「それでもわたしを好きでいてくれる人がいるんだから」と、跳ね返すことができるようになった。恋人の存在は偉大だと、彼の存在にありがたみを感じていた。

なにより、彼はわたしをよく気遣ってくれた。それに甘えてしまい、わたしも家族の相談を頻繁にしてしまっていた。眉毛を整えただけでビンタされた話や、別居中の父の悪口を延々と聞かされている話など。聞いていて気持ちのいい話ではないことは頭では分かっていたが、ついつい彼に甘えてしまっていた。

最初は、彼も真剣に話を聞いてくれていたが、次第に「もうさ、考えないようにしよう」「カラオケ行こっか。気分転換しようぜ」と、流されることも増えた。夏が終わる頃には、会う頻度も週に2回から2週間に1回へと減ってしまった。彼は「文化祭の準備で忙しくなってきてて。ごめん」と申し訳なさそうにしていたが、メールの頻度も明らかに減っていたのが気がかりだった。メールも、わたし発信ばかりになっていた。

(わたしが家の愚痴ばかり言うから、嫌になってしまったのかな…。本当に文化祭の準備で忙しくなってるのかな…。でも、どうやって確認すればいいのか分からないし、一旦は様子見するしかないか…。)とモヤモヤしながら、いつも彼と行っていたマクドナルドで、ひとりシェイクを飲みながら宿題を片付けるのが日課となった。

10月になると、彼と会う頻度は3週間に1回へと減ってしまった。9月から塾も別のコマになってしまい、なかなか会えなくなった。(おかしい…。絶対におかしい…。)と感じてはいたが、11月末の文化祭までの辛抱だと考えるようにして、じっと我慢していた。

しかし、11月10日ごろに事件が起こった。

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