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役に立たないこと(石川啄木『硝子窓』を読んで)

石川啄木の『硝子窓』を読んで、芸術や学問と大衆や実生活との結びつきについて考えたこと。

まず『硝子窓』については、「芸術や学問と大衆や実生活という両者の間には決して埋まらない差が存在していて、それゆえに芸術や学問に関わる者にはやるせなさや悲しみがつきまとう」と内容を解釈している。文学の世界について一歩距離をおいて論じているようで、一方では文学からけして離れられない自分自身への啄木の葛藤をまざまざと感じた。硝子を隔てて世界を見ているようで、その見ている世界の中には硝子に反射した自分も映っている。そんな思いが『硝子窓』というタイトルに現れているんだろう。

 ここからは僕の考え。どうして学問、芸術と大衆との差が決して埋まらないのか、それは学問や芸術は本質的には役に立たない、実用的でないものだからだと思っている。(そもそも役に立つ立たないとか実用性にとらわれるべきでないと思うけど、あえてこのように言ってみる。)学問や芸術はそれ自体が目的であり、実生活に還元されることはない。だから大衆の目にはそれらは役に立たず、近寄りがたい崇高なものに見える。(だからこそ学問や芸術が存在しているとも言える。)けれどもだからといって、それらの営みが失われることはない。それらこそ人間の本質だから。
 そして、芸術や学問と大衆や実生活、決して埋まらない差を持つこの両者を繋ぎうるものが娯楽なのだろうと思う。娯楽は、好奇心や楽しさから純粋にそれ自体が目的となって行われる。芸術や学問はその延長線上にある執念のようなものなのかもしれない。娯楽はみな平等に開かれているけど、さらにその先の芸術、学問の道に進んでいけるのはごく一部で、それを可能にするものが才能なのかもしれない。(話がそれるけれど、日本の衰退は「娯楽」を提供できていない教育から引き起こされるのではなかろうか。受験のため、金のためと実用性ばかりを求め、真の学問へとつながる楽しさ、好奇心は放棄されている。杓子定規な教育の中で自立性、創造性は無視されている。そもそものスタートが閉ざされている、道をねじ曲げている現状をどうにかしないと何も始まらない。学ぶことを楽しいと思える教育がまず必要だと思う。)

 僕たち自身が学問、芸術をわからない大衆の立場にあって、わからないものに対してどう向き合っていくのかということはこれから模索していきたい。役に立たないとか無駄とかわからないとか、そういったものこそが人生、世の中を豊かにするものだと思うし、大切にしていきたい。実用性とか目に見えるものを重視しすぎる今の世の中にはとても危うさを感じるし。


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