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毒を喰らう

買った余り物のサラダを食べながら
一日を振り返る。

会話というものを最近楽しめない事が多い。皆さんはどうですかね?
心底楽しむってなかなか無いとは思うのですが、最近は苦痛になってきて、いよいよ孤独老人への華麗なるステップを踏み始めたかと一抹の不安にもなる。

自分は普段の会話の中で人様の意見に基本否定も肯定も無い人だけど最近風呂場のカビよりしつこく勢いがあるこれ↓に出くわす。

まず否定から入る会話。

性分でそうなる人は一定数いたけど、ここ10年レベルで格段に増えた。
別に年齢だけの話じゃない。


この現象に気付くきっかけ

当初は闊達な意見のやり取りだと思っていた。しかし会話が下手糞なテニスや卓球のラリーみたいになるなぁと思ったのが、芸能ネタかな?そこらへん。その時相手はその芸能人に対して否定的だった。自分は事の経緯を知らないので成程と聞く。その意見に対して自分の見解を言う。

すると
相手から「それは違う」と言われる。自分は「そうなんだ」と返す。

会話で自分は「雲は白い」と来たら「うんそうだね!」若しくは「そうなんだ?何で?」と一旦相手の言葉を受け止めるのだけど、最近はみんな同じならそれで過ぎ去るけれど、違う場合にはまず否定。

正しい事を言っているとは思うのだが、すぐ否定になるのはコミュニケーションとしてはどうなんだろうと疑問が生じる。古い人間なんだろうか?

これがnoteなどの文章は自分で相手との言葉のラリーを繰り返す(何度も読める)からだんだん意図が掴めてくるのでそこは気にならないのだけど、会話という瞬間の音の場合、否定はそこで会話は終了してしまうし、もし更に反論で返せば嫌な空気が漂う事になる。

何で?と考えてみた。

SNSで意見を言えるようになったり、誰かの考えを簡単に知る事が出来たり、いち早く情報を知ることが出来るようになると、所持する情報や意見が他人とかなり異なっているという事に気が付かなくなる。しかも自分と同意見や趣向が同じな人や事柄を勝手にチョイスしてくれるお陰でその意見ばかりが目に入るから、全世界を相手にしているつもりが実は自分目線の全世界になっているのに気が付かない、いや、惑わされる。それが会話で悪い出方をするのでは?と推測している。

この前のビデオ通話でなんとなく気になって「それは違う」をカウントしたら、たかだか40分程度の雑談に5回も入る。(カウント前にも数回言われたので実際は6~7回?)

と言う事で会話をストレスフリーに
向かわせる様にした。

否定される都度、相手はどんな情報や意見の元に結論を出しているのだろうと思うとニヤニヤが止まらない。とりあえずめんどくさい事にならないように「うんうん」と聞きながら、相手の考えの出所を探るのもまた現代の新しいコミュニケーションというか遊びと言えるのではと密かに思っている。


否定ばかりの会話は一見毒を喰らうようだが、
さかな君がふぐ毒を取り続け、ふぐ毒に強いと言われているのと同じようになれるんじゃない?って期待している。


なに?なれるわけない? また否定かい!








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