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飛行機から

飛行機関連の所に連続してお出かけしている。

M-02Jの開発者の八谷和彦さんが
「脱出用パラシュートを使いたくないですね」
と、講演会のお話の中の一言。

偶々ネットであらゆる事故の話が流れてきた。
安全というものを考えてしまう。

毎回「あの時」とかのたられば話をしても何も変わらない。同じ仮定なら「もしかしたら」を言うべきだけど、今困っていないから「起こるか起こらないかわからない」つまり杞憂扱いされてしまう。

お稽古の場所でかなり大きな事故があった。
下手糞な自分は「もしも」を幾度となく言ってきた。
しかし一笑された。
危機感が薄れてきた頃に起きていた。
かなり動揺している。
自分がやらないとは限らないから。

確かに現状じゃあ何も起きていなかった。
でも自分はその兆しがあったから話をしていた。
慣れてしまうと聞く耳は無いのかも。


自己責任なのか
無茶も範囲内と言う感じで万が一を考えて無い。
不景気が反映されるのか
設備やサービスが落ち、ゆとりが無い。
だから起きても
「あー」の一言しか出なかった。

自分はあまりに使い倒されたタイヤが怖いと
別の車両を無理して出してもらう。
正解だった。


当たり前に自分を守らない人が増えた。
この世は安全だと思い込んでいる。

夜の駅で階段を降りると
誰かが座っていたのか菓子パンの袋。
スマホのちら見で気付かず転ぶ人を支えた。

自宅そばの大きな交差点
自転車乗りはいつも誰かをはねそうになってた。
見通しが良いのに前後ろを確認してしまう。

結局「目撃者いませんか?」の立て札が
どんどん枚数を増やしてくる。


更にこれから新しい問題も増える。
電動キックボードでのひったくりが増え、
単純でかつ効果的な大規模交通事故も増えるだろうと思ってる。

柔軟な文化の受け入れというより
只「だろうだろう」「多分そう」と
なる様になれな勢いで自分の世界を
見知らぬ他人に預けてしまう。

多分文化の違いの人達との
軋轢がどんどん増えるであろう。
自分は10年以上も前に
文化の違いで命懸けな事案に巻き込まれたから
どんどん日本の日常もあんな風になるのだろと
悔やまれてならない。

どこかしら誰かが守ってくれている。
そんなおめでたい考えばかりで
雨ざらしのささくれた木の柵に触って
「痛い」と言うのも、
アスファルトの大きな凹みで転倒する自転車も、
轍を雨の日は通らないというセオリーを
無視して自分に泥しぶきを掛けた直後に
スピンして壁に自損した車も

どこかどこか他人事なんだ。














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