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宗教が欲しい

人の生き方に、客観的かつ絶対的な「正解」などない。
当たり前のことかもしれないが、それを「体感する」のはまた別のことで、私は最近になってようやく、その厳然たる事実を体感しつつある気がする。

実家で暮らすか、一人暮らしをするか。田舎で生活するか、都会に出るか。どこで誰とどんな仕事をして、どれくらいのお金を稼ぐか。休日にはどんな予定を入れるか、あるいは入れないか。どれくらいの数や深さの友人がいるか。恋人はいるか、同棲しているのか、結婚しているのか、妊娠・出産・子育てをしているか。

選択肢は無限にあり、また、その存在にすら気づけていない選択肢もあるだろう。新宿を歩けば上も下も右も左も大量の人がいる。その恐ろしさに気づくのに時間がかかった。(ここで唐突に新宿という固有名詞を出したのは、自分にとって一番身近で分かりやすい場所の例だったからです)

正直言って、あまりにも心細い。自分に自信なんてない。というより、何を自信とすればよいのかわからない。自分の上位互換なんて腐るほどいる。どんな価値を信じて、どこを前として歩けばいいのかわからない。

結局、自分の外側に正解を探したって絶対に見つかりはしないのだ。外側にある価値は時代とともに刻一刻と変わっていく(私たちはおそらく、今まさにその激動の流れの中にいる)。頼れるものなんて何もないように見えるこの世の中で、仮に信じられるものがあるとするならば、それは自分の中の「感覚」しかない。

初めて耳にする曲の、イントロ2秒で体ごとガッと持っていかれるような感覚。新しく買ったコスメが自分にばっちりはまったときの無敵感、似合うものを分析して言語化する楽しさ。絶妙な色彩の組み合わせを見つけた時の胸の高鳴り。好きな人と時間や空間を共にしているときの、ふわふわと甘い、うっとりするような沈黙の感覚。夕立のあとの不思議にあかるい光の中で、部屋でひとり江國香織の小説を読みながら、「地に足ついていない感じ」に頭のてっぺんまで浸る、贅沢で幸福な感覚。
全部私だけのものだ。

また、自分にとっての幸福を考えたとき、そこに人とのつながりは必要不可欠だが、「自分の『好き』という感覚をベースに、人とつながる」という方法が一番楽しくて向いているだろうな、と思う。人とのつながり方もまた人それぞれだから、あくまで私にとっては、ということなのだけど。
そのためにはやっぱり、ベースとして、「ちゃんとひとりである」必要がある。ひとりで世界に触れて、好きなものに出会って、ひとりで思いっきり琴線を揺さぶられる体験をする。そうしてそれを言葉にして、同じものを好きな人とつながっていけたら、それが私にとっての幸せだ。いつどこで何に触れて何に感動し心惹かれるか、それをどう言葉にするか、それをきっかけとして誰と出会うか……そこまでいったらもう、上位互換がどうとか、どうでもよくなるよね。好きな気持ちも、人との出会いも、全部唯一無二でかけがえのないものだ。

絶対的に信じられるものがあるとしたら、私には今のところ、それ以外に可能性を見出すことができない。それで充分だとも思っている。




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