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人生の本番は今だ

私にはずっと、年をとっている実感がなかった。私はもう今年で27になる(いま書いてみてそのことにびっくりしている)。客観的数字としては立派すぎるほどもう大人なのに、精神年齢は20歳くらいからずっと進歩していないような気がしていた。ずっと内面は20歳そこそこのまま、数字だけ歳をとっていって死ぬんだろうな。漠然とそう思って、それを「知っている」ことによって、なんだか達観したような気になっていた。

でも、それもまた違うのかもしれない、と思うような出来事が最近あった。演劇をやりたくていくつか劇団の稽古見学に行っている中で、高校生や大学生と関わる機会があったのだ。私はただ見た目や数字の上で歳をとっているだけで、中身は高校生や大学生のはずだと無邪気に信じ込んでいた。
彼ら彼女らの飛ばす冗談、会話のテンポ、取り上げる話題、すべてが私とは違うことに、5分と経たないうちに気づかされた。
彼らと私は同じ世界に生きているが、世界の切り取り方が異なる。世界にかかっているフィルターが違う。それはどちらがいいとか悪いとか、正しいとか間違っているとかではなく、ただ異なるのだ。
私はそのことに気づき、驚かされ、そして少しだけ自分のことを好きになった。
ここ数年ずっと、自分の人生を愛せなかった。毎日そう思っていた。それは結局のところ、「変わることができていない」ことに対する自己嫌悪だった。私にはいくつものコンプレックスがあるが、そのうちのひとつが、決断力と行動力のなさに対するものだ。人生経験というのは、ただ生きているだけで自動的に積まれていくものではない。生まれてからずっと同じ部屋に30年間引きこもって一度も外の世界に出ることもせず、誰とも関わりを持たずにただ生きてきた人間が、30歳になったからといって年齢相応の人生を生きたことになるかというと、なかなかそうは言い難いと思う。
自分で考えて、自分で決めて、自分で動くこと。あるいは、外部の誰かとの出会いによって動かされること。それこそが生きることなのだと、気がつくまでにかなりの時間がかかったし、気がついてからも怖くて身動きが取れないときもあった。だから私には、自分がずっと同じ場所に立ちすくんだままなんじゃないか、時間の流れに置いていかれているのではないか、という不安がずっとあった。

でも、私はもう高校生ではない。大学生でもない。23歳でも24歳でも25歳でもない。高校生~25歳くらいまでの人たちと会って時間をともにすることによって、そのことにようやく気がついた。
私は生きているのだ。「今はまだ序章で、人生の本番は始まっていない」とか「私はもしかしてまだ生まれてもいないのでは...」とか思ってしまいがちだけれど、そんなことを考えている間にも、私は今まさに人生の本番を生きている。ずっとひとりで閉じこもってどうしようもない閉塞感と焦燥感に駆られながら、それでもどうしたらいいか分からず何もできなかった高校時代も、人と出会って語り合う喜びを知りとことん人を傷つけてしまった大学時代も、仕事に振り回されて心身ともにボロ雑巾状態だった社会人一年目も、その仕事をクビになって航海図も何もないまま独りぽつんと海に放り出されたような感覚になって、今なら死ねるかなあと思ったことも、付き合っていた異性とろくでもない別れ方をしたことも、どいつもこいつもわたしもみんなクズだし全員まとめて死んでしまえと心から願ったことも、なかなか仕事を決められずどうやって社会とつながればいいのか分からなくて途方に暮れていたことも、全部全部私の人生の本番だった。それらの年月が積み重なった私は、今26歳で、もうすぐ27歳になる。精神年齢はいつまで経っても幼いままだとか、特にそんなことを思う必要はなかったのかもしれない、と気づいた。いくら歳を重ねたって私は私のままだし、一足飛びに何かが変わるわけではないけれど、だいじょうぶ、私はちゃんと私の人生の本番を生きている。そう思えることは幸せだ。

ややもすると、自分という人間が年齢の分だけ年下の人より多くのものを知っていて高い位置からものを見ているかのように錯覚してしまいそうになるかもしれない。でもそれは違う、と常に自分に言い聞かせたい。彼らが感じていること、見ているものは、私にとってはただ過去になってしまっている、その切実さが違う、というだけのことだ。だから、十代のころの私や今十代の人に向かって「そんなことで悩んでるなんてかわいいね」とか「青春だね」なんて愚かな言葉は絶対にかけたくない。幼稚園児だろうが学生だろうが何歳だろうが、人はいつでもその人自身の人生の本番を生きている。舐めてんじゃねえ。

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