野田洋次郎『ラリルレ論』
引用は野田洋次郎『ラリルレ論』(文藝春秋 2015年5月)に拠る。
noteを始めて一番最初の投稿に、自己紹介でも、日常のつぶやきでもなく『ラリルレ論』の書評を持ってきたのは、何となく、でも必然的な行動だと思う。卒論でもこれを沢山引用したしね。
世の中の人は、RADWIMPSの歌詞を「共感性が高い」から指示を得ていると評価していることが多いと思うけれど、私がRADWIMPSの歌詞を好きなのは、それに共感できるからではなくて、その歌詞があることで他者を認識し、思考を「分有」し、己の存在にもう1度立ち返ることが出来るから。
この「分有」という概念は、哲学者のジャン=リュック・ナンシーの考えたことなのだけれど、要約すれば「死」というものは自分1人の中で起きるものではなくて、他者によって認識されることによって初めて成立するということ。換言すれば(国とかそういう意味の共同体ではなく)あくまでもそれ自体が有限的な存在である「他者」たちによって構成された「共同体」によって死の分有がなされることで初めて「死」という概念が存在するということ。(ゼミの先生の例をお借りすれば、我々は「共同体」でお葬式という「喪の儀式」を行うことで、初めて「死」を自覚するし、それによって「個」や「生」も認識している…というようなお話)
卒論では、この分有を成すための装置としてRADWIMPSが機能しているよね、みたいなことを書いたのだけれど、研究として成立させるために震災のお話とかを沢山盛り込んだので、いち個人としてのお話とは少しかけ離れました。まぁ仕方ない。
そして話を戻すと「私が思考するから私が存在する」のではなくて、洋次郎の思考(歌詞、自己)を私が受け取って、それにより私が私の思考(自己)を自覚して、それからさらに洋次郎が彼自身の思考(略)を自覚して………っていうスパイラルによって、我々という主体を分有できるから好きなのかなっていうのが、今現在私の考えうる、RADWIMPSが好きな理由です。これは私の妄想ではなくて(もちろん論文に書いたから妄想だとまずいのだけれど)下みたいな引用をみてみると、洋次郎自身も感じているのかなって思っています。
そういえば、私がRADにハマったのって「五月の蝿」がきっかけで、その理由が「こんなに人の闇を言葉として美しく表現できるバンドがあるんだ!」と思ったからだったんだけれど、今思えば自分のぐちゃぐちゃな感情とか汚い部分とかを「分有」した最初の出来事だったから惹かれたのかもしれない。共感とは絶対に違う。別に嫌いな人の腑で縄跳びしたいとか思ったことないしね笑
少し自分のことを言語化すると、私自身はすごく臆病で外部の刺激に敏感でとても人と関わることが苦手。世の中で今広まっている知識に自分をカテゴライズすれば、典型的なHSP。(ちなみに、便宜上HSPという言葉を使うけれど、あまり「私はHSPです!」と公表するのは好きでは無い。公表している人を批判している訳ではなくて、HSPというくくりのなかにも、それぞれ個性や悩みに違いがあることを排斥して普遍化しているような気がするからである。)少しでも人目に触れているという自覚があると、俯瞰的な自分の内声が聞こえてきて、いらない事を喋りだして、後で自己反省。暴力的な映像は共感しすぎて直に刺激が伝わるので観れない(何故か漫画は可)。人と関わりすぎると音がうるさく感じて吐き気がしたり、手に何かが触れていることが気持ち悪くて何も持てなくなる。目眩がする、立てなくなる、涙が出る。サークル活動をすれば、2日間〜2週間は家で寝込む。自分のそうした面をあまり開示したことが無いから、知らない人も多いと思うし、図らずとも周りから「しっかり者」というイメージを付与されてきたことで、それに無理やり自分を寄せにいった自覚もある。
そんな人間が自分を表現していくのに恐怖を覚えるのもまぁ無理はないかなと思う。現に自分はTwitterのリア垢が無い。TwitterみたいなすぐにTLで流れていってしまったり、文字数に制限があるようなコンテンツでは、表現したいことがし切れないから。それに加えて、言葉の受け取り=その人自身の思考の分有だから、何十人も何百人もの思考を無差別に投げつけられ、分有を強制されることに耐えられない。やっぱり、言葉はじっくり練って、しっかりとした分量で、ゆったりと相手に伝えたい。だから今の時代の連絡手段は辛い。
あと、こんなに人との関わりに恐怖を抱いているのに、向いている(と言われる)のが「人との調和」なのも矛盾している。周囲から「気遣い」「優しい」と評価してもらえることから判断できるし、今までやってきた音楽(吹奏楽、合唱…)は、少なくとも手応えを感じる部分があって、褒めてもらえる部分も沢山あった。でも、高校卒業して吹奏楽から離れてみたら、強いられていることの気持ち悪さに恐れ戦いた。個性を消して周りと同化するからね。普通に吐き気がしました。対して軽音楽をやってみたら、個の技術でぶつかり合うという行為によって、何をやっていても自分の中で俯瞰的な自分の声が聞こえてしまって一切集中できない。脳みそぐちゃぐちゃ。これとは絶対向き合いきりたかったんだけれど、時間が足りないかもしれないな。こんな中で音楽を続けていることにはまだ理由が出せていない。社会人になって、音楽活動から離れて、また新しくわかることがありそう。
こんなふうに「個」と「共同体」との間でせめぎ合っている人間にとって、RADWIMPSの歌詞という分有<救済>の装置と出会えたことは、なんと形容したらいいか分からないけれど、ひたすらに幸福なことだったんだなと切に思うようになりました。
もちろん、もっと純粋に洋次郎の言葉遊びの楽しさとか、楽器隊の技術が光る音楽全体とかそういった部分でもRADWIMPSが好きです。今回過去のインタビューとかを遡って、バンド内でこんな葛藤があって、こんな気持ちでこのリフを弾いたんだとか、こんな気持ちでこのアルバムが制作されたんだとか色々な背景を知って、益々曲への想いも深まったし。
そして洋次郎が言っている。「自分が世界を愛した分、世界も自分を愛すのではないか」と。今後ずっと思考は続けていくしかないし、自分のことは嫌いだ。嫌い嫌い嫌い嫌い。でもRADWIMPSしかり、小説しかり、noteしかり、友達との会話しかり、「分有」が自分にとって世界との関わり方の相棒なのかなと思う。
体良くまとめたけれど、書評よりも感想になってしまった。自分が少しだけ恵まれたことは、きっと少しだけ言葉が好きで、少しだけ複雑な思考の過程も好きなこと。「得意」ではないけれど「好き」。全部少しだけだけれど、でもその少しだけをnoteでのばしていけたらなと、そんなことを思った2023年の1月1日でした。