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音の歪んだキーボード

我が家には電子ピアノがあります。
約14年前、私が小学2年生の頃にサンタさんから貰ったプレゼント。
音楽好きの母の影響で歌うことが大好きだった小さな女の子は、ある日ショッピングモールでピアノに出会います。でもそれは展示用で販売はしていないんです、と。その子はしょんぼりしながらお家へ帰りました。
そして数ヶ月後のクリスマスの日、起きたら枕元にあったのは横長の大きなプレゼント。開けてみると、あの日ショッピングモールに置いてあった電子ピアノ。鍵盤が光ったりするものではなく、シンプルに黒と白しかないキーボード。
我が家は母子家庭だから運ぶ人は母親しかいない。細っこい母がひとりで車からアパートの2階まで運んだことに、幼いながら驚いた記憶があります。

私の母は幼い頃からピアノを習い、学生時代は吹奏楽部、大人になってからは合唱団に入るという無類の音楽好き。本棚には数え切れないほどの楽譜が昔からありました。
そんな母の影響を受けて育った娘は少年少女合唱団に入り、歌うことの楽しさを知っていきました。母にソプラノを教えて、自分はアルトを歌う。上手に出来たら次はパートを交代。また、母がピアノを教えてくれて、簡単な楽譜を連弾したり。そうして私たちは音楽を通して母娘の時間を作っていました。

そんな日常にもやがかかり始めたのは私が中学生の頃でした。「水の中にいるような感じがする」と言った母はその日を境に聞こえない音が多くなっていきました。自分の声はトンネルの中にいるみたいに共鳴する。まるで四六時中ヘルメットを被っているみたいと話す母。のみ薬も点滴も効かず、鼓膜への注射も試みましたが良い方向には進みませんでした。
話しかけても1度で全てを聞き取ることができない母との会話は難しく、多感な時期の私は怒鳴ることが多くなっていってしまいました。

そして改善はみられないまま数年が経ち、母は集音器を使いながらの社会生活。コロナ禍でみんなマスクをしているから口の動きがわからなくて聞き取れない、と言っているのを幾度となく聞きました。そんな生活の中で母は「あなたの声だけはちゃんと聞こえるの」と言った日がありました。確かに家で会話をする時に集音器を使っているところを見たことがありませんでした。その時は普通に聞き流しましたが、この言葉は私の中に今でも残っているほど嬉しかった。

我が家に置いてある電子ピアノはもう母の手によって電源を入れてもらうことは叶わないかもしれません。音を鳴らしても正しい音階で聞こえないから気持ち悪いそうです。今はキーボードの上に畳んだタオルが置いてあります。その事について母は「お母さんの心の表れだね」と笑っていたことがありましたが、それを聞いた娘は心が苦しいよ。
今は隣で動画を見ていても音が聞こえておらず、喋りかけるときもワンクッション置かないと上手く聞き取れない母ですが、新しく補聴器を手に入れて大好きな推理ドラマやクイズ番組を楽しんでいます。

何年も電源すらいれてもらえず薄っすらホコリが被ってしまったキーボードだけど、近いうちに娘の私が音を鳴らしてあげるからね。
また綺麗な音を我が家に響かせてください。

fin.


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