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プロコフィエフ・ピアノチクルスvol.3

[2015/05/31竹風堂大門ホール]

vol.3
みなさんようこそおいでくださいました。

今年のテーマは近代ロシアを代表する20世紀ソ連を代表する作曲家でありピアニストでもあるセルゲイ•プロコフィエフです。今日はその3回目です。プロコフィエフはピアノソナタを9曲書いてます。今回は作曲年代順に全9曲聴いていただけることになっております。

前回第2回までに第1番から第3番までのソナタを聴いていただきました。今日は第4番と第5番ですね。半分まできました。
このピアノチクルスに登場するピアニストは全員長野のピアニストです。今日の第3回のピアニストは石坂愛さんです。

ぼくの実家はこの会場からすごく近いんですが彼女のおうちもけっこう近いです。地域密着でお送りしています。

さて、本題に入りましょう。
プロコフィエフは間違いなく天才児でした。プロコフィエフはあまりにも天才すぎて学生時代からとんでもなく冒険的で前衛的な曲を書いていたので、その上お母さんの教育方針もあってかなり自由に育ったので我慢するってことができなかった。伝統を重んじる音楽院の先生たちの言うことをきけなくて大変な問題児でした。 とゆーのが、まあ、前回までのお話です。


1914年に音楽院を優秀な成績で卒業すると、プロコフィエフの名前はロシア音楽界に知れ渡りました。知れ渡ったからといってすべてうまくいくわけではありません。いつの時代でもそうですが、世の中そんなに甘くない。
特に、プロコフィエフの場合は時代が悪かったです。


もう、とんでもなく滅茶苦茶に悪かった。


卒業してハッと気がつくと凄まじい激動の時代に突入してしまっていた。プロコフィエフの音楽院卒業の年は、1914年。つまり第一次大戦が始まった年です。ロシアは革命へ猛烈な勢いで向かっていました。
1917年には10月革命が起こって、ロシア国内は内戦状態になって1922年にはソビエト連邦が確立されます。

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今日の前半はちょうどその頃に書かれた作品を聴いていただきます。
戦争と政治的混乱。凄まじい時代です。

さて、プロコフィエフが学校を出た年、1914年、第一次大戦が始まった年です。時代は悪かったですが、プロコフィエフは卒業のご褒美にロンドンに旅をしました。ここでプロコフィエフはセルゲイ・ディアギレフに紹介してもらうことができました。

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これは本当にすごいことです。ディギレフはふつうは音楽院を出たばかりのペーペーの音楽家はほとんど会うことができない人物です。ディアギレフの名前はバレエがお好きな方は確実に知ってらっしゃると思います。ディアギレフはロシアの伝説的なバレエ団バレエ・リュスの主宰者です(バレエ・リュスというのは「ロシアバレエ団」という意味です。

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ロシアはご存知の通りバレエ大国です。19世紀にチャイコフスキーの「白鳥の湖」や「くるみわり人形」「眠りの森の美女」などといった傑作の数々によってロシアのバレエはロシアを代表する芸術として圧倒的な水準に成長しました。20世紀に入ると第一次大戦や革命によってロシアの国内でバレエの水準を維持するのが難しくなってくるわけです。

ディアギレフのバレエリュスも混乱の時代を外国・フランスのパリに移動して活動することを決断します。プロコフィエフがディアギレフに会ったこの当時ディアギレフは既にパリで大成功を収めていました。当時のバレエリュスにはニジンスキー、バランシン、フォーキン、マシーン、アンナ・パブロワというような伝説的な超一流ダンサーが揃っていました。舞台美術を担当していたのはピカソ、ダリ、マチス、ミロ、ユトリロ、マリー・ローランサン、ルオー。衣装をシャネルなどなど。すごい顔ぶれですねえ。音楽を担当した作曲家もストラヴィンスキー、ドビュッシー、ラヴェル、サティ.....などなどなど錚々たるメンバーです。すごすぎて何も言えませんが、バレエリュスではこれが「ふつう」でした。 この時期のパリにはヨーロッパ中の天才的芸術家たちがみんな集まって暮らしていたんですね。信じられないような刺激的な環境がごくふつうにそこにあったのです。そこに天才的なディアギレフが自分のバレエカンパニーを率いてやってきて、「圧倒的なプロデュース能力」でもって、天才的な芸術たちを集めて20世紀をリードするような上演を重ねて、圧倒的な成功を収めていったのです。 若きプロコフィエフはそういった伝説的な興行師に会えるだけで天にも昇る気持ちだったでしょう。

ディアギレフは無名の芸術家の才能を見出す力を持っていました。


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無名だったイゴール・ストラヴィンスキーにも「火の鳥」を書かせてバレエリュスで上演して、一躍有名作曲家にしてしまいました 。

ディアギレフは卒業したばかりの全く無名のプロコフィエフの才能もすぐに見抜きました。プロコフィエフがディアギレフにピアノで自分の作品を弾いて聴かせるとディアギレフはすぐに

「君はバレエを書くべきです。わたしは君と一緒に仕事がしたい」

と言ってくれました。そしてディアギレフから具体的に新作の依頼を受けたプロコフィエフは意気揚々とロンドンからロシアに帰国したのです。

プロコフィエフが帰国すると、サラエヴォ事件をきっかけに第一次大戦が始まっていて、ロシアの国内の状況は激変していました。労働者たちの不満が高まってストライキが多発していました。ロシアは第一次大戦を戦いながらも革命の一歩手前の危機的状態だったわけです。とんでもない状態です。プロコフィエフはロンドンに行って帰ってくるわずかの間にロシア国内の状況が大きく変わってしまったことに唖然としてしまいました。音楽院も一等で卒業してディアギレフの仕事も入ってこれから音楽家としてがんばろうと思っていたところでこの状態です。そんなプロコフィエフにとって心の拠り所はディアギレフの新作バレエ音楽の依頼だけでした。政情不安で音楽の仕事なんて全然ありませんから、とりあえず生活費はお母さんに助けてもらいながらプロコフィエフは作曲に没頭しました。そうして意気揚々とディアギレフに作品を見せたんですが、ディアギレフはこれをボツにしてしまった。バレエの方はそんなわけで上演されなかったのですが、プロコフィエフはもったいないのでボツになったバレエ音楽を元にしてオーケストラ用の組曲「スキタイ組曲 アラとロリー」を完成させました。この曲、みなさん聴かれたことありますか?恐ろしく凶暴な音楽です。プロコフィエフの全作品中でもトップクラスに野蛮でむき出しの暴力性を誇る作品です。ぜひCDなんかで全曲聴いていただければと思います。ゲルギエフのリハーサルの動画も非常に興味深いです。



あまりの凶暴性に初演はかなりのスキャンダルになったようです。原始的で凶暴といいますとストラヴィンスキーの「春の祭典」が有名ですが。

まさにその「春の祭典」に勝るとも劣らぬ強烈な音楽なんです(時々勝ってる部分もあるかもしれません)。ホントにものすごいです。このバレエをディアギレフがボツにしたのは、まさにこの『春の祭典に勝るとも劣らない』とゆーところに原因があったのです。「春の祭典」は、ディアギレフがストラヴィンスキーに書かせて上演して歴史的センセーションを巻き起こしたエポックメイキング的な演目です。ディアギレフは「春の祭典」のようなものではない、違った傾向のものを望んでいたんですね。二番煎じっぽくなるのをディアギレフは嫌ったのですね。だからボツにしちゃった。

個人的に思い出深く愛着があるのはアバド&シカゴ響の演奏です。アレクサンドル・ネフスキー、キージェ中尉も入ったアルバム。この「アラとロリー」はホントに繰り返しよく聴きました。この時期のアバド&シカゴ響の録音はどれも超素晴らしくて、大好きです。

さて、今日の前半は「アラとロリー」と同時期1917年頃に書いていた短い20曲の小品から構成される小品集「つかの間の幻影」からの10曲を聴いていただくことにします。


強烈で暴力的な「アラとロリー」とは正反対の音楽です。プロコフィエフはこの作品について「気立ての優しい曲と呼ぶことができるだろう」と言ってます。確かにあまり過激すぎない曲が並んでます。20曲まとめてやらなくても、今日みたいにバラで演奏してもいいんです。プロコフィエフ本人によると、「20曲の曲順はちゃんと芸術的に配慮した順番で並んでいる」そうですけどね。『つかの間の幻影』というタイトルはロシアの詩人バリモントの次のような詩の一節からとられています。

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「あらゆる刹那の瞬間に私は世界を見る、

虹色にちらつく光に満たされた世界を……」


一曲はとても短くて数十秒から長くて2分くらいでしょうか。それぞれの曲には題名も付いていません。10曲ですが、たぶん10分くらいじゃないかなと思います。短かく切り詰めた世界にプロコフィエフの鋭い感性がきらめく様を楽しんでいただければいいかなと思います。文学で言えば小説ではなく、俳句や短歌と同じ方向のものだと思って聴いて下さい。一瞬のニュアンスや感覚を切り取った世界ですね(刹那)。日本人は俳句や禅寺の枯山水のような異常に切り詰められた芸術を感覚的に理解できる民族ですので、これから聴いていただく「つかの間の幻影」はどちらかというと我々日本人向きの音楽かもしれません。
戦争や革命で騒々しかった当時のロシアで、プロコフィエフはどういった気持ちでこういったものすごく鋭敏でデリケートで感覚的な音楽を書いたのか。非常に興味深いです。

つかの間の幻影のあとはソナタ第4番を聴いていただきましょう。「つかの間の幻影」と同時期1917年の作品です。

成立の事情は前回聴いて頂いた第3番のソナタに似てます。第3番も学生時代の作品を元に再構成された作品でしたが、第4番も同じです。だから3番と同じ「古いノートから」というタイトルが付いてます。前回聴いていただいた3番は劇的でダイナミックな音楽でしたが、今日聴いて頂く4番の性格は対照的。第4番は全体に瞑想的で抒情的です。このソナタには「M.A.シュミットホフの思い出のために」という献辞があるのですがこのシュミットホフという人はプロコフィエフの親友で、ピストル自殺してしまったらしいんですね、その親友への追悼の気持ちがこのソナタにはこめられていて、そんなこともこの曲の瞑想的なムードに影響しているんでしょうね。
このソナタの第一楽章はアレグロ・ソステヌートと表示されています。これはちょっと興味深いですね。アレグロってのは 快活に とか速くって意味なんですが、ソステヌートってのは音を十分保持して、また速度を抑え気味にってことなんです。だからちょっと矛盾した指示なんです。例えば三楽章もアレグロ・コン・ブリオ・ノン・レッジェーロとゆー指示です。アレグロ・コンブリオは速く元気よくってゆー感じの意味なんですが、そこに、ノン・レッジェーロ、軽くならないでとゆー言葉をくっつけてる。速く弾くとある程度自然に軽快な感じにもなりますが、それをしてくれるなと言ってる。二楽章のアンダンテ・アッサイもちょっと判断に悩む指示ですね。こーゆーちょっと矛盾した指示の書き方がこの作品の複雑な性格をよく表していると言えるんじゃんないかと思います。

では、つかの間の幻影10曲、ソナタ4番の順で聴いていただきましょう。



[休憩]

さて、後半ですね。

1917年にはついにロシア革命が起こってしまいます。
ロシア革命のリーダーたちの考え方についていけなかったプロコフィエフはロシアを出てアメリカに行くことを決意します。亡命ですね。

1918年、プロコフィエフはシベリア鉄道でウラジオストクを経て、まず日本に上陸しました。1918年の5月です。福井の敦賀に上陸したようですね。まず日本で思ったのが蒸し暑いとゆーこと、こんなに小さい人たちと戦ってロシアは負けたのかってことだったようですよ。プロコフィエフが子供の頃に日露戦争があって、日本が勝ったんですよね。プロコフィエフは8月まで約2ヶ月日本に滞在して横浜や東京でピアノのコンサートを開催してますが、まあ、基本的にはのんびり日本の滞在を楽しんだようです。

日本の印象は、蒸し暑さには辟易したようですが、浴衣を気に入ったり、芸者を気に入ったり、日本酒を楽しんだり、京都に行って感激したり、そのときのことはプロコフィエフ自身の日本滞在記に詳しく書かれてます。

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7月には軽井沢にも遊びに来たようですよ。軽井沢は関東に比べて涼しくてうれしかったようです。とてもおもしろい滞在記です。プロコフィエフは小説を発表したりするほど文才もある人なので、日本の滞在記も非常におもしろいのです。滞在期は下記の短編集に入ってます。短編小説もおもしろいです。興味ある方はぜひ。ピアノ関係の人やぷろ子好きの人は必携の一冊。

前半聴いていただいた「つかの間の幻影」は日本でのリサイタルで弾いたようですね。ソナタ4番は日本で世話になった評論家の太田黒元雄さんの前で最新のソナタだと言って全楽章弾いてみせたようですね。

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ですから前半聴いていただいた曲は、できたばかりの時期に日本で作曲者本人が弾いてるんですよね。すごい!
この時期のプロコフィエフは「2、3ヶ月もすればロシア国内も落ち着いて、ふつうにロシアに戻れるだろう」と思っていたようです。第一次大戦はこの頃には終わってましたけれども、やはりこれは非常に甘い見通しですね。

結局約20年くらいは祖国には戻れなかったです。

祖国ロシアは共産主義のソビエト連邦、ソ連に変わって、何もかも変わってしまったのですから。

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なかなか難しいです。
1918年の8月に横浜を出発したプロコフィエフはアメリカに到着しましたが彼を待っていたのは移民局(エリス島)での厳しい取り調べです。アメリカは当然のことながらソ連を危険な国だとして警戒していて、プロコフィエフが亡命者を装った共産主義政府「アカ」のスパイだと疑ったのです。3日間留置場に入れられて厳しい取り調べを受けたそうです。大変ですねえ。

20世紀初頭のアメリカ入国の状況はフランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザー PART II」の序盤の移民局のシーンを観るのが良いと思います。プロコフィエフもこんな感じだったでしょう。

映画で取り調べを受けて拘留されるのはイタリアの子供(ヴィト少年=後のドン・コルレオーネ)で、ロシアの青年のプロコフィエフとは扱いは違ったでしょうけれども、雰囲気はだいたい感じ取れるんじゃないでしょうか。

当時は革命を嫌ってアメリカに移住するロシア人も非常に多かったのです。ラフマニノフとかハイフェッツ...。などなどなど...。
実際のエリス島の記録映像👇も残ってます。みんなここからこんな感じで入国したんですね。

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