リトグラフのこと
yanagidaAG Lab -アルミ版研磨とリトグラフ-
先週の金曜日(6/14)に無事終了いたしました。
ユマニテの展示も多摩美の展示も、たくさんの方に見ていただき、心から御礼を申し上げます。たまたま多摩美のリトグラフ非常勤講師を勤めていた縁で、準備期間からお手伝いをさせていただくことになり、多くのことを経験させていただきました。作家の1人としてこの展示に関われたこと、そして、この研究を間近で見せてもらい学ぶ機会を頂けたこと、とてもありがたく感じています。
私自身は、東京芸大の学部2年の時に初めてリトグラフを体験し、学部3年の時に本格的にリトグラフを選び、リトグラフを始めてから約10年の月日が経ちました。その間、この展示で取り上げられている柳田さんの作るアルミ版をずっと使い続けてきました。1枚にじっくり描くタイプでないため、同学年の誰よりもアルミ版を消費してきた気がしています。
作家としてリトグラフと接していくうちに、教える立場にもなり、リトグラフは自分にとってより深い意味を持つようになりました。ただ、リトグラフで使う、アルミ版を作れるのは柳田さんしかいない。リトグラフの道具も廃盤になるものがチラホラ。この10年の歳月の中で、アルミ版がなくなったらどうしよう、アルミ版だけでなく、いつも当たり前に使っている道具がなくなったらどうしようと、不安に駆られることは何度もありました。
元々油画科出身であることもあり(東京芸大は版画科はなく、油画科のカリキュラムで版画を選択します)、絵を描いたり、違う方法を試してみたりとリトグラフ以外の表現を改めて探したことも当たり前にあります。それでも、学部3年の時に感じた、リトグラフの可能性、版画の可能性。そこで初めて感じた感覚。それは自分にとってなくてはならないものでした。結局、どんな表現をし続けるにせよ、版画を選択すること、リトグラフを選択できることは自分にとって大きな意味を持ち続けてきました。
一生リトグラフと付き合うだろう。でも、リトグラフは、特にアルミ版は危機的状況であって、どうにかしなきゃいけない。でも、どうしたらいいのだろう……?
どうしたらリトグラフの未来を変えられるのか、もしくは自分が安心できるようにリトグラフ自体をアレンジできないのか、論文を漁ったり、科学の本を読んだりしてもピンとこない。
石をやってみても、違う。
石に対して大きな抵抗感を感じる理由の一つに、描いたイメージを消すということがあります。
予備校の時から、描いた絵を捨てることに物凄い抵抗があり、大きく損傷したもの以外は恐らくドローイングも含めてほぼ全ての絵を残しています。(捨てられないだけとも言えますが…)
アルミ版も同じです。刷られたものが作品といえど、私にとっては描いた版は一番大切な存在です。刷り切ったアルミ版もなかなか捨てられずずーっと持っていて、けれど、枚数が溜まっていくとあまりに重くて、流石にしょうがなく、泣く泣く柳田さんに何度か回収してもらいました。
そんな感覚なので、古いイメージを消して新しいイメージを描く石は、自分にとってちょっと違うなぁという違和感がありました。
私にとっては、手元に残るから、アルミ版で作品をイメージできるとも言えます。
もし絵が消えるとなると、大前提が代わり、私にとっての絵の意味も変わってきてしまう。
消えることが前提の絵……それはそれで儚いのかもしれないですが。
私にとって、アルミ版であることが大切なんだよなぁ…。
そんな時に多摩美の佐竹教授の研究を知りました。ああ、こうやってやると新たな道が開けるのか。
全く今まで考えたこともない方法でした。
そして、私には絶対に真似できない方法でもある。
それが、今回のyanagida AG Labの一連の展示とシンポジウム(招待制)です。
この展示は確実にリトグラフの未来にとって大きな意義を持ちます。
たくさんの人とこの展示を通して出会うことができました。
どこかでスッとすれ違ってきただけの人とも、改めて顔を合わせることもでき、展示では受付などの裏方をしてたこともとてもありがたかったように思います。
私には私のやり方でできることがあるんじゃないかと強く感じたきっかけが、この佐竹教授主導の研究・展示です。
佐竹教授の研究はまだ続きますし、私も私自身で何がしかのことをこれからも行動したり、意識したり、やっていくことになるんだろうと思っています。
思った以上に、リトグラフだけをやっていればいい日々ではないのでそこが難しいところではありますが、少しだけ、1歩でも前に進めたこの期間でした。
この先の未来に、版画が現代美術の可能性の1つになり、もっと気軽にリトグラフができるようになって、表現がもっともーっと広がっていくことを夢見て。