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陳侃理「漢代二千石秩級的分化」(『文史星曆』)

○問題提起

 「二年律令」より、漢初は「二千石」のみであったことが知られる。しかし、後代には「中二千石」「真二千石」「比二千石」に分化する。閻歩克によれば、「中」は中央官の意で、その登場は中央官の地位が地方官に比べ上昇したことを示し、「比」は吏職でないものや、軍吏など特殊な官職に用いられたという(『従爵本位到官本位』)。このように、二千石の分化は官職と密接に関連する。
 一方で、そのような関連は閻著の主要素ではなく、検討の余地がある。尹湾漢簡には「秩大郡大守」とあり、秩級が官名に由来し、官職と職責の大小を示している。かかる秩級は、秩級の命名方法のみならず、秩級と官職との関連や、官僚制度・政治文化の変化をも反映するであろう。

○秩郡大守の解釈と証明

 カラー版尹湾漢簡の図版に「・・・・・・大守一人、秩□□□□、大守丞・・・・・・」とあり、「□□□□」は「中二千石」「真二千石」「比二千石」などと釈されてきた。しかし、新たな赤外線図版をみると、下二文字は「千石」ではなく「大守」と釈されるべきであり、東海郡の戸数をふまえると「大郡大守」であろう。このことは、『漢書』元帝紀・『漢官旧儀』から明確であるほか、『漢官旧儀』の注からは「大郡太守」の秩級は個人に依存するのではなく、官職そのものに対する秩級であることがわかる。しかし、「大郡大守」の秩禄はどれくらいで、尹湾漢簡で數字を用いないのは、なぜであろうか。また元帝紀で大・小郡で秩級を区別したのはなぜであろうか。

○官職を秩級の名とする

 「大郡大守」のような秩級表示では、二千石を超えたことしか判明しない。そこで、史料を渉猟すると、中二千石の京兆尹から河南太守(三河)に格下げされたことや(『漢書』百官公卿表下)、功績により特別に東郡太守を中二千石にした例がみえる(『漢書』王尊伝)。このことから、「大郡大守」は中二千石以下であったことがわかる。
 また官職で秩級を表示する例は、ほかにもある。第一に「諸侯相」で、武帝期に「秩諸侯相」という記載がみえる(『漢書』霍去病伝)。景帝後元年には中二千石に諸中央官が対応する制度が形成されていたが、諸侯相は中央官ではなく「中」と表記できなかった。第二に、「万騎太守」で、たとえば綏和元年に大郡・万騎の員・秩を二千石にしたという記載がある(『漢官旧儀』)。これは、綏和元年以前は大郡・万騎太守が独立した秩級であったことを示す。諸侯相と万騎太守は、居延漢簡にも「列侯・中二千石・諸侯相・邊郡万騎太守・・・」とあり、傍証となる。
 これらは、秩真二千石に相当したようである(『史記』汲黯列伝『集解』引如淳注)。真二千石は「詹事」がみえるが(百官公卿表上・臣瓉注引『茂陵書』)、この真二千石は、『漢書』百官公卿表に記載がなく、一時的なものと考えられる。おそらく秩級の適用範囲が中央官に拡大したことで、地方官の職名により秩級を定めることができず、同一俸禄にもかかわらず秩名が異なる現象をさけるべく、職名を伴わない秩級が設けられたのであろう。
 第三は光禄大夫で、「秩光禄大夫」「秩臣爲光禄大夫」という記載がある(『漢書』諸葛豊伝)。百官公卿表には「秩比二千石」とあるが、前述のケースは秩級そのものであろう。このような数字を用いない秩級表示が、中二千石と比二千石の間にあることは、二千石という重要な等級と密接な関係をもつ。

○前漢二千石の分化

 「二年律令」によれば、二千石は単に秩級を指すのみでなく、県道官など下位官職が上計などをする際、中継点になった諸官を指す(置吏律・捕律)。ここで、便宜的に秦・漢初の官僚体系を「中枢(丞相ら)」「高層(二千石官ら)」「中層(令・長ら)」「基層(稗官)」の4種にわける。高層官の分化は、中層官の分化に比べると遅く、秦代の執法(二千石)の新たな称謂であろう。中層官の分化は「二年律令」の段階で確認できるが、二千石官の分化はやや遅れ、文・景帝期に行われた。その過程は、まず同じ二千石の中でも、中央官が地方官より優遇され、中二千石が誕生した。次いで、武帝期の「諸侯相」が見えるが、「中二千石」も「諸侯相」も、官職の名が秩名と対応する点で、命名方法は共通すると言って良い。郡守・諸侯相は同じく高層の官僚であったが、その中でも職掌の繁簡により区別が生まれ、秩級分化の根拠となった。
 しかし、漢の地方統治においては、郡守・諸侯相になった後、中二千石官に昇進する機会が少なかった。そこで、宣帝期には諸侯相でありながら秩中二千石となる例や、逆に秩二千石でありながら中二千石官に就任する例が現れ、秩級が官職ではなく個人に依存するようになる。一方で、制度内で二千石でない郡守・相は、諸侯相と大郡・万騎などの太守のみである。各郡を転任する者が出る中で、転任にも慣例的に序列が形成され、新たな秩級が誕生したのであろう。すなわち、元帝期における三河・大郡大守の秩級化は、郡間の転任の序列を制度化したのである。

○成帝から王莽期の秩級

 職務の繁簡などから秩級の分化が進んだが、成帝~王莽期になるとむしろ統合が図られ、後漢にも引き継がれる。かかる変化を、閻歩克は中央集権化により郡の位置づけが低下する中で、大郡太守など部分的な地位向上があったものの、大勢には影響しなかったとする。閻歩克の所論は、前・後漢に限った場合首肯できるが、見方をかえると、成帝期までの秩級分化は、戦国期からのものと解すことができる。成帝~王莽期に周制的復古が行われ、後漢を表向きは継承したが、実のところ、地方では職務の繁簡による待遇の差別化が進んでいた。そして、魏晋期に継承されていくのである。このように、戦国期以降の長いスパンで捉えると、成帝~王莽期は一時的な現象となる。

○結語

 本論では「秩大郡大守」より出発し、秩級分化は官職の繁簡などに依存することが明らかとなった。秩が官職に依存するのは、秩が官職に由来するからであろう。

書誌情報:陳侃理「漢代二千石秩級的分化」(『文史星曆』2024年、上海古籍出版社、294~313頁)。なお、書籍化にあたり張家山漢簡(336号墓)「功令」を反映した若干の補足あり。要参照。


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