見出し画像

楊振紅「秦漢官僚体系中的公卿大夫士爵位系統及其意義」(『出土簡牘与秦漢帝国』)

○問題提起

 秦漢期の官職は「位上卿」のように「位」を用いて地位を示す事が多く、官僚体系に秩禄以外の序列が存在することを示す。周代には「内爵」「外爵」のような区別が存在し、秦漢期に継承されたものと思われるが、中央集権化を経てもかかる区別が残存したのはなぜだろうか。私見では、漢代には「公卿大夫士」(位)・「禄秩」・「二十等爵」の三系統が存在し、後二者は、前者の派生である。そして、この前者・後二者のすりあわせが、漢代の官制改革における関鍵である。

○秦・前漢期の大夫「位」とその特権

 『漢書』百官公卿表からは、「公」「卿」の存在を確認できるが、「大夫」・「士」は曖昧である。そこで、本論は大夫の「位」に焦点をあて検討する。
①大夫の「位」と禄秩
 大夫の「位」が六百石を境界とすることは、各種史料から確認できる(睡虎地秦簡「法律東門」・居延新簡など)。その中には、六百石を下大夫とする史料や(『漢書』司馬遷伝など)、二千石を上大夫とする史料があり(『史記』太史公自序・同『索隠』)、また大夫の「位」を称する習慣は、膾炙していたと思われる(『史記』十二諸侯年表など)。また景帝期には六百~千石と二千石にそれぞれ特権を付与し、武帝期に「令」を六百石~千石の専称としたのも、それが一つの階級であることを示す。ここで注意すべきは、宦官は公卿大夫士の「位」に包含されないこと、公卿大夫は外朝官に限定され、地方官や内朝官などを包含しない点である。ただし、地方官なども「位比」という方法を通し、公卿大夫士の「位」に対応していた。
②六百石以上の特権と意義
 六百石以上に特権を付与していたことは広く知られている。たとえば、景帝期には車の外貌で通常の吏民と区別できるようにし、後漢でも六百石を境界とする服飾などの特権があった。また、六百石は朝議・祭礼への参加でも区別されたようである。それゆえ、漢代の外朝は六百石~丞相で構成され、とくに六百石には多くの官職が該当した。また特権は司法・賦稅などにも及び、後漢でも継続した。六百石といえば、基本的に五大夫の爵位が与えられたことが知られる。五大夫は官爵の起点であり、終身免役の特権を与えられた。つまり、漢朝は離職後も爵位により特権を保持することを保証し、さらに六百石と爵五大夫の社会的地位はほぼ同様であった。さて、かかる特権の考察を経た上で、注目すべきは六百石が大夫「位」の起点に相当することである。六百石が保持する地位は、大夫という「位」を通して得たものであり、より早期に出現した公卿大夫の「位」系統が、秩決定の基準となった。このように、秦漢期は公卿大夫士の「位」系統が官僚体系の基礎にあった。

○前漢における公卿「位」の確立と制度的モデル

 前節における六百石以下の構造は、王莽期まで基本的に変化しなかったが、公・卿といった官僚体系の上層部と禄秩との関係は大きな変化を経た。これは、成帝期の改革によるが、この改革はなぜ行われ、なにをモデルにしたのであろうか。まずは、「二年律令」を参考に文帝期の官秩改革を見ていく。
 「二年律令」と百官公卿表では、官秩の序列が異なる。とくに、最上層にその傾向が顕著で、秩律では二千石のみである一方、百官公卿表では中二千石・二千石・比二千石が登場する。この変化にかんしては、はじめて中二千石が現れるのは景帝元年で(『史記』孝文本紀)、文帝六年に太僕夏侯嬰が二千石であり、この間であると考えられる(『史記』淮南王列伝)。この変化は、『新書』にみえる賈誼の献言と相即しており、中央官と諸侯官・郡守の区別を明確にしたと考えられる。この改革では、内史・長信詹事も中二千石に列せられており、逆に郡尉などは比二千石に降格となった。
 上記の考察をふまえると、文帝の改革まで卿と上大夫はいずれも二千石であったことになる。先秦における卿は一般に執政者を指し、「上大夫卿」なる表現があるように、上大夫に属していた。このことは、『韓非子』外儲説下などからもわかり、秦・漢初の制度はこれを踏襲したものである。両周期には、天子と諸侯の制度には、等級に差があると考えられていた。かかる序列が事実かは定かでないが、戦国中期には内爵と外爵の区別が想定されていたようである。また「三公九卿」の如きも、『国語』に由来するが、『呂氏春秋』に吸収され、秦をへて武帝期に結実した。このような官制論は、現実にも相応の影響をもたらし、戦国秦では天子の相を「三公」に擬す用例がみえ(『史記』白起列伝)、統一後は丞相を「三公」と称す例がある(『史記』李斯列伝)。「二年律令」秩律では、丞相の秩が設定されていないが、このような区別を継承し、丞相と百官が区別されていたのであろう。一方で、統一秦では列侯の下に丞相がみえ、官僚体系の地位は侯より低く、漢初も中央官と諸侯官に区別がなかった。賈誼の献言は、このような状況に即して行われたのである。
 文帝は即位前から「三公九卿」の理念を支持しており、おそらくその在位中に御史大夫を三公の一角とした。これには、文帝期の官秩改革も影響している。「三公九卿」の理念も、その思想的系譜をたどるのは困難であるが、『国語』にその語がみえるほか、『荀子』君道では天子の三公と諸侯相が対となっており、三公九卿を天子の相と想定しはじめたのもこの頃であろう。このように考えると、「「公卿大夫士」による天子の制」も理論的根拠として、前漢の官制改革に反映されているのである。

○結語

 西周期には、土地を卿大夫士に賜与することで、内爵体制を構築し、官職は卿大夫士の系統に依存した。春秋戦国期には官秩制が発達し、卿大夫士の体系と結合した。卿大夫士の系統は、このようにして漢代においてなお重要な意味をもった。一方で、「公」は戦国期の諸子による概念で、卿大夫士の系統と結合し、「公卿大夫士」の内爵系統を生み出した。かかる系統は、統一秦における政治体制の理論的根拠となる。その後、成帝期にいたり、名実ともに三公の制度が完成する。
 総括すると、秦漢期において公卿大夫士の爵位系統は、秦漢国家の政治体制と密接に関連し、官秩もこれに依存して生み出された。魏晋にいたると、この系統から官品制度が誕生し、中国古代官僚政治に影響を与え続けるのである。

書誌情報:楊振紅「秦漢官僚体系中的公卿大夫士爵位系統及其意義」(『出土簡牘与秦漢帝国』中国社会科学出版社、2023年)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?