かなしい争いは、何時迄

争いは なぜ起こるのだろう

人と人とのあいだには 言葉というものがある

人は野生の動物では無い

人の数だけ 様々な価値観や考え方がある

十人十色が鬱陶しくなったら争うのか?

恐らく、僕には一生理解し得ないのだろう


例えば目の前に橋がある

それは今にも崩れそうな そんな橋がある

隣に どうしても渡りたいという人がいる

しかし僕も どうしても渡りたい

そういう時 人はどうするべきだろう

僕ならきっと 道を譲る

しかし仮に 僕にも譲れぬ理由があるとして

そうした時 争いが起きるのかもしれない


果たしてそれは最善か。


たった一歩 自らの足を引いてみる。

そうして 本当に最善かを考えてみる


僕なら隣の人と 新たに橋を作るだろう。

例えばそれが言語の違うもの同士でも

どちらかが死ななければならないのなら

2人で渡れる橋を 作ればいいのではないか


こうした考えを 綺麗事と嘲笑う者は多い

「みんなが幸せになれるわけが無い」

「二人で作った脆い橋で 共に落ちるだけだ」

これらの考えも、きっと正しい。

考え方というのは無限で 間違いはない。

誰が どれが 何が 正しいのかは人による。


それでも尚 人の死は望まないのだ。


国の高い場所に立つ人間は

嘸かし大変なのだろう

僕にはそれを理解することすら出来ない

綺麗事を並べ、死を憂いて、涙をこぼす。

卑屈な僕にできることは、それくらいだ。



それでもやはり、

生ける命がひとつ消えるたび

世界も僕も、

悲しまずにはいられないのだろう。


願わくば、互いを尊重しあえますように。

願わくば、互いを思いやれますように。




願わくば、

世界が優しさで溢れますように、


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