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祖父

祖父は病院に入ってから、痴呆がどんどん進んでいった。
初めの頃は名前を呼んで「よう来たなあ。」と言ってくれたのが、だんだん看護師さんと間違う頻度が上がっていって、最後の方はプロポーズまでされた。ありがたい話である。

不思議なのは死んでしまう直前まで父の事はちゃあんと覚えていて、父が見舞いに行くと「おお、来たか。」と必ず言った。父が横に座る私について「娘や。お父ちゃんからしたら孫や。わかる?」と言うと祖父は私の事がわからないことが申し訳ないような居心地の悪そうな顔をするのであった。そして少し考えたのち、実直な人間だった祖父は適当に頷くこともできずに、にへら、と笑うのであった。私はあんなに厳格だった祖父にそんな顔をさせることになんとなく決まりが悪くなって「誰でもええやんなあ、ご飯食べよか、今日はなんの味なんやろなアこれ。」と誤飲を防ぐためにドロドロに砕かれた様々な色の流動食を勧めた。

祖父は私にとって「頭の固い厳格なつまんないジジイ」だった。教師だった祖父は引退後も塾を開き、塾生は少なかったけれどもそれを老後の生きがいにしていた。とても勤勉で痴呆が始まるまでは毎日熱心に勉学に励み、祖父の持っている膨大な参考書や辞書はどのページにも祖父の愛用している1.0ミリの太すぎる赤と黒のボールペンでメモや波線の書き込みがされていた。特に重要と思われる部分には二重線を引き、ぐるぐると丸印までされているので、かえって見づらいほどであった。その勉学に対する高すぎる熱量を投影したかのような筆圧で、紙の薄い辞書などはページが破れているところなどもあった。

祖父は私が中学生になると自分の家に来るように指示し、私に勉強を教えた。私はこの時間が大変嫌いだった。私は祖父の家まで約一時間の道をバスで通った。京都の有名大学を卒業して、海外の研修にも選ばれるなど当時の人としては優秀だった祖父は自分の孫にも自分と同程度の頭脳と勉学への積極性を期待をしていたが、私はそれに応えられるほどの熱量を持ち合わせておらず、当然結果も伴わなかった。そんな覚えの悪い私に祖父は懸命に粘り強く指導をした。そしてそれは学業の面からのアプローチに留まらず、私を本屋に連れて行っては成功のためのなんとか、やらなんとかの法則、のような自己啓発本を山ほど与えた。私は興味ないんやけどなあ、と思いながらも読んでないとも言えないので見出しだけを読み、読んだふうに装った。

祖父からは一週間のうち数回、休みの日には一日の中で何度も「激励」の電話が掛かってきた。どの電話も内容は同じだった。「勉学に励みなさい、やればできる、あの本にも書いてあったろう」その三つだけだった。私はその電話を受けている間、受話器のコードを指に巻き付けたり、指に何周分のコードが巻き付くかを数えたり、床の地模様が何の動物に見えるかを考えたりしてやり過ごしていた。私は正直言って祖父の事が嫌いであった。

ある日祖父の家に向かう途中、私はバスの中で急に限界を迎えた。はじめは動悸と息切れ、次に冷や汗。視界がぼんやり白くなり、バスの床はがぐんにゃりと柔らかいものに変質し、バスに乗っている人間がひとり残らず全員こっちを観察しているような気がした。降りる。それしか選択はなかった。私は祖父の期待を重圧に変換し、精神を消耗してパニック発作を起こしたのだった。中学もバスで通学していたため、学校へもろくに行けない日が続いた。あの日、バスから降りたことは祖父が描く孫の姿を追うことから降りることとも同義だった。

そんなこんなで祖父の激励もむなしく、私は美大生になった。その頃の大学生の私に対しての祖父の教えは異性交流をするなというものにまで及んだが、もはや祖父の思う通りの人間になれなかった私は隠し事をすることでしか祖父の期待に応えられなくなっていた。その頃の私には天然パーマのメキシコ人の彼氏がいたが、祖父には言わずにいた。

メキシコ人の彼氏はお国柄か本人の気質かわからない適当で雑な明るさで私を引っ張りまわした。コテコテの関西弁を話すくせに日本語が苦手だからとレポートを私に書かせた。「都合がええ時だけガイジンぶるな」と私が言うと「その分酒奢ったろ」とテキーラを飲ませ、私がジメジメウジウジとしていると、肉を食え、とケバブ屋に連れていった。彼にはゆっくり話を聞いてやるとかいう繊細な気遣いは皆無であった。そしてなんと悔しいことに、一緒にいる時間が長くなるにつれていつの間にかパニック発作を起こすこともほとんどなくなっていった。

そしてその後、社会人になると同時に遠距離になった私とメキシコ人は別れることになった。ブラック企業に就職した私は仕事に追われ、最終的には「おれと仕事どっちが大事やねん」と言われたが、悪いがその答えははっきりと仕事であった。

それからしばらくして、痴呆が原因で事故をした祖父が入院することになった。転院を繰り返す間に痴呆も進み、最終的に落ち着いた病院は病院というよりも老人ホームのようなところで、事故により車椅子生活になった祖父のような患者が沢山入院していた。

私は祖父の見舞いにいくのがそれほど嫌ではなかった。祖父は、既に私の知っている祖父ではなかったからだ。痴呆の進んだ祖父からは小言や激励、指導という言葉が消え、体調の優れない時以外はいつもニコニコとし周りの人間に常に感謝をしていた。体調の優れない時でも癇癪を起こしたりせず、じっと静かに自分の容態を噛みしめるかのように過ごし、痛みや苦しみを口に出すことはなかった。

祖父が危ないという連絡が入った朝のことは今でもよく覚えている。父から連絡を受け、すぐに病院に向かった。なぜか父よりも早く祖父の元に着いた私は、祖父がすでに危ないという状態を過ぎていることにはすぐに気がついた。生気がないというのは、こういうことなのだと思った。蝋細工のようになってしまった祖父のベッドの横でしゃがみ込み、私は父が来るまでじっとしていた。

バタバタと父と母が病室にあらわれ、担当医が蘇生を試みてくれた。私は、そこに祖父はもういないのだけどなあ、とぼんやりそれを眺めていた。医師はやがて時計を確認し、時間を告げた。遺族のための優しい儀式だった。

そこからは坦々と物事が進んでいった。親戚が集まり、プロの手によって私たち遺族を急かすでもない絶妙な心遣いで何もかもがスムーズな葬儀が行なわれた。

懸命に生きるという点において、私は祖父以上の存在を知らない。
当時は目を合わせることすらできなかったが、振り返ると彼は一分一秒たりとも無駄にしてなるものか、という行き方をしていた。
疲れへんのやろかなあ、と考えることはあっても見習いたいと思うには至らなかったが、ひとりの人間の生き様として、あっぱれと言わざるを得ない。

私にどれくらいの人生が残っているのかはわからないし、私の死が誰に何を思わせるのかなどという事は考えたくもない。
現時点ではろくな想像ができない。せめて、ろくな女じゃなかった、と言ってもらえるだろうか。そう言ってくれる程の関係の人が、私の死を知るまでの期間、ひとりでもいてくれるだろうか。

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