見出し画像

二月

もうずっと、前髪が伸びたままである。美容院にはあまり行けないから、ひと月おきくらいに自分で切っている。いつもがたがたになってしまうが、誰に見せるわけでもないのでそれでいい。でもそれも最近はめっきりしなくなった。はさみをもつことがなくなってしまった。料理は元々ほとんどしないが包丁をもつこともできず、先日危険ゴミの日にぐちゃぐちゃの紙の皺を伸ばし何枚か重ねてぐるぐる巻きにして捨てた。
刃物が怖くなった。いつからだろう。持つのも見るのも体が無理だ、と拒絶する。こわい。一日の殆どをベッドの上で過ごすようになった。トイレには行くがお風呂に入るのは3日に一度程度。生活に必要な諸々のアップデートが全くできない。新しいことを取り入れることも難しくなった。過去はずっと色褪せないが、あたらしいことはなにもない。安心がずっと付き纏ってくれるかわりに、期待や挑戦をまつことはなくなった。それが、ずっと安心で、ずっと不安。

なにもない。ずっとなにもない。だからなんにもしないまま、ここにいられる。それがずっと安心で、ずっと不安。
この生活が、嘘でもいい。そう思っていることが嘘かもしれない。もうずっと、誰とも喋ってない。最初こそ誰かと喋りたくて必死で相手を探していたが今となってはどうてもよくなった。好きだった人も、ことも、随分と遠くに行ってしまった気がする。追いかけるのすら億劫だと考える私に、きっとあの頃ほどの愛はない。私の愛はどこにあるんだろう。からだの中にあったはずの愛はどこにいってしまったんだろう。一生懸命だった愛はどこにいってしまったんだろう。乾燥した唇から生まれる皮みたいに剥がれ落ちてしまったのかもしれない。心が乾燥してしまってるんだろうか。ここは海の中ではないから潤すことは、できない。ぽろぽろ、ぽろぽろ、剥がれ落ちて、どこかにいってしまった。でもどこも痛くない。なにかが私のからだからなくなっているのにどこも痛くない。痛みを感じることさえも皮として。

なにもない。ずっとなにもない。外の世界は、外の世界でしかない。昼間は起きていないので、外から人の声は聞こえない。たまに通る救急車の音が、命を感じさせる。どこかで命が消えようとしているのか、既になくなってしまったあとなのか、私にはわからないけれど、薄くなった命と、助けようとする命。そこには愛があるはずだった。私の愛はどこにあるんだろう。きっともう日本にはないかも。誰のことも傷つけないかわりに、誰のこともよろこばすことができない。自分ですら、よろこばせられない。何もしない、何もないこの部屋では。あるはずの私の命は、私の愛の対象ではないらしい。届かない電車のつり革みたいに、ちゅうぶらりんな私の命が、なにも感じずに今日も同じところでしずかに眠っている。

もうずっと、前髪が伸びたままだから前が見えない。時々隙間から見える世界がほんとうなら、私は多分世界から弾き出されているだろう。それでもいい。それは安心だから。ずっと安心で、ずっと不安。色褪せない。なくならない。きれいなまんま。浮かんだ体はもうずっと戻ってこない。
私の愛はどこにあるんだろう。傷つけることも喜ばせることもできない、そんな私の愛は愛ではないのかも。熱いうちに飲み込まなかったから、私の愛は愛ではないのかも。でもそれでもいい。安心だから。
眠くなってきた。朝が来るんだね。そろそろねむろう。誰にも見つからない場所で。ここはまっしろだから、真っ白な洋服を纏って、真っ白なお布団に包まってねむろう。
私の愛がどこにあろうとも、色褪せない過去を愛してねむるの。おやすみなさい。

#短編 #小説