見出し画像

おっきいじいちゃん最期にハーゲンダッツ食べて死んだって

曽祖父の初盆だった。享年100歳オーバーの大往生。通夜式では最期の様子が語られた。

「おっきいじいちゃん最期にハーゲンダッツ食べて死んだって」

最期にハーゲンダッツ。なかなか粋な選択肢。
小さい頃、曾祖父の部屋に行くと、いつも揺れる木の椅子に座っていた。膝の上にのぼったり、部屋の中を散らかしても笑って、見ていた。胸ポケットにはお金が入っていて、そこからお小遣いをくれた。まだ、お金の価値は分からなかったけれど、
「好きなものを買いなさい」と言って渡してくれた。

施設に引っ越してからも、会いに行くと、胸ポケットを探してお小遣いをくれようとした。お金は別のところで管理しているようだったけれど、それでも、わらわらと遊びにくる孫やひ孫を気にかけてくれていた。いとこがダメージジーンズを履いて遊びに行ったときには、破れたズボンが可愛そうと思い、
「新しいのこうたろ(買ってあげる)」と何度も言っていた。

親戚や親から伝え聞いた話では、曽祖父は戦争経験者でサイパンにいたこともあったそうだ。ただ、本人の口から語られるのは、悲惨な戦争の経験ではなく、「くせ毛を伸ばすのが熱くて嫌だった」ということだけだった。パーマをあてているように見えるからか、外国人のように見えるからか、正確なことは分からないが、当時は無理やりにでもくせ毛を伸ばさなくてはならなかったらしい。きっと、くせ毛のセットより、もっともっと苦しい経験をして、ひどい光景をたくさん見たのだと思うけれど、本人の口からはくせ毛のことしか語られなかった。

その後も、就職先がことごとく倒産して、大変な生活を送ったらしい。曾祖母と喧嘩をすると、大好きでいつも常備されていたあんぱんを投げあっていたと聞いた。ヒートアップすると、
「こんな家出ていってやる!」と、お決まりセリフを吐いたそう。住んでるのは、自分の家のはずだけど。

もしも。ひとつでも欠けていたら。
今の当たり前はなかったかもしれない。私は生まれてこなかったかもしれないし、家族が今の形ではなかったかもしれない。

線香をあげ、仏壇の前で手を合わせるとき、そんなことを思い、背筋が伸びる。今ある当たり前は、先祖の生き抜いた証であること。たくさんの積み重ねの上に成り立っていること。自分自身もまた、その担い手であること。

おっきいじいちゃん、ありがとう。
じいちゃんのおかげで、こんなご時世に親戚と食卓を囲むことができました。じいちゃんから大切にしてもらったこと、今度は私が周りを大切にして、ちょっとずつ恩返ししていこうと思います。

あと80年くらい。じいちゃんより少しだけ長く生きて、ハーゲンダッツ食べてから行くね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?