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【創作】ここではないどこかで

大きな川の淵ぎりぎりに、大きな猫を抱えて立っていた。雪が降りしきる中、川は流れを緩めることなく、雪を吸い込んでごうごうと流れていた。私と猫は、それをぼんやりと眺めていた。寒く、恐ろしく、どうしようもなく心細かった。

「ここではないどこか」へ行きたいという、半ば現実逃避のような理由で家を飛び出し、旅でもすれば休息になり、休息を取ることができれば、諸々の課題も解決されるのではないかと期待を抱いてたどり着いた。いつか写真集で見た美しい雪景色の村だった。確かに、雪深く大きな川の流れるこの環境は、「ここではないどこか」であることに違いなかったが、たちまち圧倒されてしまった。全神経をとがらせなければ雪の中を安全に歩くことさえままならなかった。目的地であったはずの川のほとりに着いたときには、ほとんど呆然としてしまった。リュックサックの重みのほとんどを占めていた大きな猫を外に出して、腕に抱く。都会育ちの猫だから、雪の中は初めてであるはずだった。それでもじっと大人しくしていた。腕の中でずっしりと重い猫を見ながら、やっぱり連れてきてよかったと思った。大量の雪に囲まれた今、この世界で唯一の仲間であるように思えた。

大きく黒い猫を迎えたのは、ほんの数週間前のことだった。食べる物に困ったのか、寒さに凍えたのか、玄関のドアの前に立ちふさがるようになった猫をどうすることもできなかった。私の方が大きいはずなのに、全く怖がることなく、睨めあげるかのような視線を送ってきた。望みのものが手に入るまでは頑として動かないという強い意志を感じた。きっと本気で追い払えば勝てたのだろうが、私は早々に白旗をあげた。何事も抵抗するより、諦めて受け入れたほうが楽なのだから、と。こうして、迎え入れたというよりは、私の生活に割り込んできた猫は、すっかり我が物顔をしてソファへ座っていたりする。私は一度猫を病院へ連れていき、最低限の生活用品を買い与え、名前を付けようかと悩んで、やめた。猫は安全な寝床と食料が手に入れば、それ以外の一切を求めていないような気がした。たとえば、他の愛玩動物のようにかわいらしい名前で呼んだり、甘やかしたりすることを。
私はというと、初めは猫のための掃除や給餌を面倒に思っていたが、いつの間にか猫のためと思っていたことが、私自身の生活を整えていることに気が付いた。床の上に置いたものは壊されるので片付けるようになったし、猫にだけ餌をやって私がご飯を食べないのは悔しいので負けじと食事をした。猫は規則正しく餌をねだった。

猫によって少しだけ整えられた私の生活だが、猫の手を借りてもなお片付かない問題も山積みであった。割り切ることも処理することも、もうどうすることもできなくなり休暇を取った。取らざるを得なかった。社会人になってから一番に長い休暇だった。そして、計画もろくに立てずに「ここではないどこか」を目指した。預ける先もなく、追い出すこともできず、猫は私の逃避行に付き合わされる羽目になった。

「ギー!」
腕の中で猫が上げた声で我に返る。いつの間にか猫の背にも私にも雪が薄く積もっていた。じんじんと腕がしびれているのに気付いて、あわててリュックサックに猫を入れ、宿泊先へと急いだ。

あたたかな色をした電球がついた客室へ通されたとき、全身の力が抜けていくのを感じた。ぐっしょり濡れた靴下を脱ぐと、足先が真っ赤になっていた。どこで転んだのかすねには丸い青あざが点々とついていた。なにもない平地であれば、体力のない私でも走り切れるくらいの短い距離を歩いただけだった。それが慣れない雪の中だとこんなにも大変だとは思わなかった。細いヒールで走れることもここでは全く意味をなさない。休息に来たのに生きていく力のなさを痛感する羽目になった。猫もがたがたと揺られながら運ばれて疲れてしまったのか、座布団の上で丸くなっていた。

少しすると遠慮がちなノックとともに、夕飯が運ばれてきた。色とりどりの料理が並べられていく。猫にはたっぷりの鰹節が提供された。
「これは猫ちゃん用の鰹節だから安心ですよ」
そう言われたが、きっと野良猫時代は安心できないものもたくさん食べてきただろう。私たちは黙々とご飯を食べた。あたたかいご飯をお腹に収めると、体の真ん中がぽかぽかした。ここでは、いつもよりたくさん食べて、いつもよりたくさん眠った。そうしなければ、生きていかれない気がした。いつまでも降りしきる雪を眺めながら、ぼんやりと数日を過ごした。

そして、十分に体力を回復した私たちは、また私たちの生活へ戻ることにした。
「お気をつけて」
並べて用意された私の靴はきれいに乾かされていた。当たり前のように差し出された親切が嬉しかった。受付の横で寝ていた旅館の猫が私たちを見送った。

来た道を通り、長い間電車に乗ってなんとか家の玄関を開けたとき、なぜだかほっとした。嫌で嫌で逃げだしてきたはずなのに。
結局、旅をしても元の生活に戻ってくると何も変わらなかった。旅の間、充電の切れたままになっていた携帯にはたくさんの連絡が入っているだろう。これからどうしていくのか、考えるべきことも山のようにあった。「ここではないどこか」へ行っても全てが好転するなんてことはなかった。けれども、自分が思い込んでいた世界より、目の前の事象はうんと優しかった。

たくさん食べて、たくさん眠ろう。きっと大丈夫だ。雪の中を抜けて私たちはまた、春を見つけられる。

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